









































私の父は二年前の夏に亡くなったが、母を亡くしたのは、それより十年以上前のことだった。
亡くなる直前の母は、人が変わったように鬱々としていた。その姿は、私に鮮烈な印象を残した。
病床に見舞いに行くと、いつもむっつりと押し黙っていて、何を話しかけても、まともに答えようとしなかった。
話に窮してしまい、しばらく黙っていると、「なに黙ってんの。なんかしゃべって」と言う。しかし、会話のキャッチボールができないのでは、なかなか話も続かない。必死になって言葉を探す。しかし苦心して投げた言葉にも、やはりろくな返事がない。また言葉が続かなくなり、重い沈黙が訪れる。
結局どうすれば良かったのだろう。最後までわからなかった。
こんな母の姿は、まるで見たことがなかった。
元気な頃の母は、非常に明るく快活な性格であった。
社交的で、友人知人も多く、いろいろなことに興味を示した。地域のボランティアや奉仕活動にも熱心だった。若い頃から物怖じせず、何にでもトライする性格だった。戦前生まれの母の世代には珍しいことだが、アメリカ留学経験もある。結婚してすぐ専業主婦になってしまったが、得意の英語力を生かして、通訳や翻訳の手伝いなどもやっていた。中高年になって、突然、英検一級を受験して一発合格した。クラシックにも造詣が深く、自分でも演奏した。どこから探し出してきたのか楽団専属のプロの音楽家からチェロの個人指導も受けていた。
そんな母が、まるで別人のように、無愛想で、不機嫌になってしまったのである。
当時、七十にも手の届かなかった母は、まだまだこれから、という矢先での難病だった。本人には具体的な告知はされていなかったが、置かれた状況から、先は長くなさそうだというのは勘づいていただろう。
あのときの母の状態は、あきらかに普通ではなく、重度の鬱症状を呈しているようだった。
しかし、どういう心的状況であったかは知る由もない。いずれにせよ、まるで別人のようになってしまったことだけは確かだ。
母は熱心なクリスチャンであった。死後の魂、ということについても疑いは持っていなかったはずだ。しかし、末期の母は、宗教的なことに関心を示さず、それまで愛読し続けていた聖書を開くこともなかった。
聖書どころか、文字の類いはいっさい受けつけなくなっていた。気晴らしになるようなゲームやパズル、ペン習字のようなものを持って行っても手をつけなかった。
あらゆるものに対する興味を失ったようであった。あれほど、いろいろなことに興味を示し、のめり込むと徹底的にやり尽くす性格だった母が、こんなふうになるのは想像の外だった。
意味の剥落
おそらく、そういうことだったのだろう。
あらゆる意味という意味、価値という価値を完全になぎ払ってしまう、ほんものの虚無。
子どもの頃、死ぬのが怖かった。深夜に激しい恐怖に襲われ、泣きわめいた。
そんなとき、父や母は、あらゆる言葉を尽くして慰めてくれた。
しかし、どんな言葉も全く慰めにならなかった。
言葉は、意味の世界からやってくる。あのとき、自分が直面していたのは、そんなものが全く通じない、まったき無であることを、幼い心ながら完全に理解していた。
そこには、まったく救いがなかったが、まぎれもない真実があった。
いつのことになるかわからないが、自分の身にも、母と同じように、自分の死期が明白に感じられるときがやってくるのかもしれない。そのとき、子どもの時に感じた、あの感覚が再び訪れるのだろうか。
はたして自分は、それに耐えることができるのか。
全く自信が持てないのである。
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サドの小説を、なにか一個ぐらい読んでみようかなと思い、どれを読めばいいか調べているうちに、ちょっとわからなくなった。
一般には、澁澤龍彦のサド裁判で知られる『悪徳の栄え』が、最もポピュラーな作品のようだが、これは何かの長いシリーズの中の一部のようだ。しかも、澁澤の訳は全訳ではないらしい。
このシリーズの全容はどうなっていて、翻訳はどうなっているか、などなど、基本中の基本情報が、ネットの検索では、イマイチよくわからないのだ。
そこで図書館で何冊か翻訳本を借り出して、解説部分などを読んでみたら、意外とあっさりわかった。やっぱり紙の本は馬鹿にできないね。
まず、「悪徳の栄え」の物語は、大きく「ジュスチーヌまたは美徳の不幸」と「ジュリエットまたは悪徳の栄え」に分かれている。
ジュスチーヌとジュリエットは姉妹で、この二人は対照的な人物。妹のジュスチーヌは敬虔なキリスト教徒で美しい心の持ち主。しかし、次から次へと悲惨な目に遭い、最後は非業の死を遂げる。一方、姉のジュリエットは、アンモラルで自由奔放な無神論者。自己都合だけで生きており、悪逆の限りを尽くすのだが、どういうわけか全てが上手くいってしまい、栄耀栄華を極める、といった話だ。物語は、この二人の対照的な人生を、手を変え品を変え延々と綴っており、むやみやたらと長いわりに、金太郎飴のように、ずっと同じ話が続くらしい。
さて、この二つの物語のうち、ちょっと錯綜しているのは前者の方で、「ジュスチーヌ」には三つのバージョンがある。
第一ジュスチーヌ…「美徳の不幸」
第二ジュスチーヌ…「ジュスチーヌまたは美徳の不幸」
第三ジュスチーヌ…「新ジュスチーヌまたは美徳の不幸」
である。
これらの作品は、主に獄中で書かれている。サドは、基本的に獄中作家なのである。
サド侯爵(1740-1814)は、もともとは実践の人だった。語源になっているのは伊達ではなく、正真正銘のサディストである。身分と資金力にものを言わせて、娼婦などを屋敷や別宅などに引っ張り込んでは、ちょっとやりすぎ気味なSМごっこをしていた。
これが当局に知られるところとなり、サドは収監される。しかし、性癖というものは如何ともしがたいものらしく、何度も懲りずに同じことをしては収監される。途中で脱獄して逃避行に及んだり、いろいろドラマチックである。若いころは、シュッとした風貌もあり、わりとモテていて、いろんな人と関係を持つ。奥さんが、ちょっと謎なぐらい貞淑な人で、ロクでもないサドに徹底的に尽くした挙句に、最後になって突然離婚する。
澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』は、非常に読みやすく、なおかつエンタメ度も高いのでオススメだ。三島由紀夫は、この本から着想を得て戯曲「サド侯爵夫人」を書いた。侯爵夫人に目を付けたところは、さすがの慧眼だ。
さて、サドの獄中生活のうち、最後の収監が十年以上にわたる長期のもので、三十代後半から四十代にかけてのものである。かなり過酷なものだったらしい。
ただ、無類の本好きだったサドは、この時期に大量の本を読んでいる。そして暇にあかせて膨大な手記、そして戯曲と小説を執筆する。もともと実践の人であったサドは、自由を失ったことにより、想像の世界に遊ぶようになった。獄中生活が「文学者」サドを誕生させることになったのだ。
ただ、「暇にあかせて」とは言っても、その執筆状況は過酷な状況下で行われた。まともな暖房器具もなく、粗末な衣類と寝具だけで過ごす中、ろうそく一本で、細かい字でびっしり小説を書きつけていくのである。目を患い、失明寸前にまで追い込まれるが、ろくな医療を受けることもできなかった。
フランス革命のどさくさに紛れて、ひとたびは獄中から解放されるものの(襲撃の数日前までバスチーユにいた)、革命政権からナポレオン期にかけて、状況がころころ変転し、いっとき祭り上げられたかと思えば、また次の日には獄中の人となったり、気の休まる暇もなかった。そして最後は精神病院でその生涯を閉じることとなる。
さて、思わぬ回り道をしたが、物語の方に戻ると、ジュスチーヌ物のうち、第一ジュスチーヌと第二ジュスチーヌはバスチーユ獄中で書かれている。
ただ、この時期にサドが書いたものは、あまり大切に扱われておらず、収監先の移転や、革命のどさくさに紛れて、少なからぬものが散逸している。その中には、今日残されているテキストをしのぐほどの大作もあったらしい。
第一ジュスチーヌ「美徳の不幸」も散逸したテキストの一つであった。執筆されたのは1787/6/23から7/8にかけての二週間ばかりの間であることがわかっており、日本語に換算して400字詰400枚ほどの作品を一気に書き上げている。
この作品は長らく行方が分からなかったが、1909年に発見され、1930年に刊行された。河出文庫の澁澤龍彦訳『美徳の不幸』は、その全訳である。
また、同じくバスチーユ獄中期にあたる1788年、サドは第一ジュスチーヌを二倍以上の長さに加筆修正した第二ジュスチーヌを執筆している。これが出獄後の1791年、全二巻の書物として刊行され、大変なスキャンダルを呼ぶ。作者名は匿名で、すでに死んだ人ということになっていた。しかし、その正体がマルキ・ド・サドであることは公然の事実であったようだ。第二ジュスチーヌは、岩波文庫の『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』で読むことができる。
また、出獄後のサドは、それでも気持ちが収まらず、前著をさらに二倍半近く引き延ばした改訂版を執筆する。それが1797年(最近の研究では1799年ではないかとも言われている)刊行された『新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸、ならびにその姉ジュリエットの物語』全10巻である。最初の4巻がジュスチーヌ物で、後半の6巻が『悪徳の栄え』として知られるジュリエットの物語である。前半4巻が、先の分類でいう第三ジュスチーヌにあたり、河出文庫の澁澤龍彦訳『新ジュスチーヌ』は、その一部を翻訳したものである。ただ、これは「抄訳」というのともちょっと違い、正確に言うと、原著全4巻21章のうち、第3巻13章から第4巻17章までを途中省略なしに訳出したものである。先に紹介した同じ澁澤訳『美徳の不幸』と、セットで読まれることを意識して、このような訳出方法を取ったようだ。
ジュリエット物に関しては世評名高い澁澤龍彦訳『悪徳の栄え』(河出文庫で上下巻)があるが、これは全訳ではない。
佐藤晴夫という人の訳した『ジュリエット物語又は悪徳の栄え』というのが、どうも全訳っぽい。(ちゃんと確認していない)
また同じ佐藤訳で『ジュスチーヌ物語又は美徳の不幸』というのがあるが、これがどのジュスチーヌなのかも確認できていない。たぶん第三ジュスチーヌではないかと思う(間違えてたら教えてください)。
したがって、最も完備した形で、このサーガを読み切りたい、という人は、佐藤訳の二著を読めばいいのではないだろうか。
ただ、どの話も同工異曲なスジの運びが延々と続くばかりのようなので、手っ取り早く押さえておきたいだけなら、澁澤訳か岩波文庫版で十分だと思う。
結局、自分は岩波文庫版を読むことにした。
SNSでつながっている人の中には、けっこう世の中に物申したい人たちがいて、毎日毎日、いろんなネタを取り出しては論評している。「これは酷い」「まったく度しがたい連中だ」などなど、いちいち文句をつけている。
私は、こういう世事に類する話題に怒りがこみあげてくることがまずない。多少は怒った方がいいのかな、とは思うものの、無理に怒ることもないか、と、そのままにしている。総じて「義憤」という感情が私にはない。それにしても、なんでみんな、そんなに怒れるのか。
世にはびこる風潮、人物、勢力、団体等々について、いちいち気色ばんでは、舌鋒鋭く論評したり、警句を発したりしている人たち。こういう人は、リアクションを誤ると、攻撃の矛先が、たちまち、こちらに転じかねないから用心が必要だ。
おもえば、大学時代に「義憤」の強い友人がいて、ホントに手を焼いた。「お前、そういう態度はよくないぞ」などとずいぶん説教されたものだった。できるだけ彼の調子に合わせて、いっしょに怒っているふりなどしていたが、やはり限界があった。
そもそも私の学生時代といえば、天安門事件から、ベルリンの壁崩壊、冷戦終結、イラクのクウェート侵攻など、物情騒然としていて、義憤の種にはこと欠かなかった。
あるときのこと、当時世間を騒がせていたユーゴ内戦のことについて、くだんの友人から意見を求められた。
ろくにニュースも見ていなかった私は、なにか言えるほどの定見もなく「まあ、どっちが悪いとも言えないよね」などといい加減なことを言った。「わからない」などと答えると、また説教されるのが目に見えているので、適当にわかったふうなことを言ってお茶を濁したのだ。
果たして、その答弁に、友人はブチ切れた。
「それはどういう意味だ」と、問い詰め、こちらが口ごもっていると、「どう考えても、✕✕の側が悪いに決まってるだろうが!!」と大喝した。
それから彼は、洪水のように自説をぶちまけ始めた。こういう問題に怒りを覚えない人間を、彼は許せないようだった。典型的な平和ボケ日本人の悪い例だとなじられ、こういうことは、決して他人事と思ってはいけないと決めつけられた。
国際問題に限らない。自分は、政権与党に対して怒りを覚えることもない。
ときの政府や首相に対して、あれこれ不平をぶちまける床屋政談の類いが始まると、ほんとに退屈になる。現政権の✕✕政策についてどうだとか、野党は野党で、あの体たらく、などといった品評会など、ほんと、どうでもいい。なんでそんなに怒れるのかな、と思う。いやいや怒らなきゃマズイだろう、というが、ホントにそうか?
投票も行きたくない。しかし、いろいろ言われるのが面倒なので、行っている。妻について行って、妻の指定する候補者と政党を記入している。私にとっての投票行為の目的は家庭の平和。それ以上の意味はない。
最近では「冷笑系」だの「DD論者」だのというレッテルまで発明されて、私のような者は、ますます肩身が狭い。無関心でいられるのは、恵まれたご身分だからだ、そのうち手痛いしっぺ返しが来ても文句を言うなよ、などと脅される。
恵まれているかどうかはわからないが、私は、この世ではかなり生きづらいタイプではある。義憤はないが、自分事となると、かなり心が狭い。嫌なこと、我慢できないことが無数にある。自分のことだけで精一杯で、大所高所から物事を捉えて、善し悪しをジャッジできる余裕などないのである。
怒っている人は、なんだか自信がある。自信がなくては怒れない。まずは「自分は正しい」というのが怒りの大前提だ。のべつまくなし義憤に駆られて怒っている人を見ると、その自信の揺るぎなさに辟易してしまう。
私には自信がないのである。定見もない。「その手の「重大問題」は好きなもん同士で好きなだけやり合ってください、私みたいな人間は、生暖かい目で放置しといてください」と、言いたいのである。
前に、注射が怖い、という話を書いたが、私にはもう一つ怖いものがある。
注射と比べると、だいぶランクは落ちるのだが…。
実は水中が怖い。
泳ぎは、そこそこ得意な方で、たしか中学時代、クラス対抗の水泳大会で一等をとった記憶がある(数少ない栄光…)。
しかし、そのこととは別に、水に対する恐怖心が、かなり強く、洗顔中に息を止める程度のことでも息苦しさを覚えるほどだ。
一度、スキューバダイビングの一日体験というのをしたことがある。あれは本当に怖かった。まったく初めての人向けの初歩的な潜水なので、何の困難もない簡単なタスクのはずなのに、無造作に「はい、それでは潜りますよ~」と、いきなり海中に連れて行かれたときは、軽いパニックに陥った。「このパイプを口にくわえて、口呼吸をしてください」という簡単な説明だけで、いきなり潜らされたのだ。「えっ、ちょっと待ってください。どういういうこと?」と問うヒマもなかった。水深10数メートルもあるようなところで、口呼吸に失敗し、ガボリと水を飲み込んでしまったらどうなるのか。咳き込んでも周りは全部水だ。これは死ぬのではないかと思った。
なにしろ体験するのは素人たちばかりだ。水中で水を飲み込む事故なんて、けっこうあるんじゃないかと思うのだが、あの無造作加減から推測するに、めったにないか、あっても、なんとかなる、ということなのだろうか。
それにしても、あれはホントに怖かったので、インストラクターが、事前にちょっとなだめるみたいなこと(注射をするとき「ちょっとチクッとしますけど大丈夫ですからね」と言うような)も全く言わず、無造作に潜っていったのが、ちょっと信じられないぐらいだった。みんな、あれが平気なのか?
この、水に対する恐怖は、なんというか、死の恐怖と直結している感じがする。注射に対する恐怖については、そのような哲学的(?)な香りはない。
それは、世界のキワに連れていかれるような恐怖だ。世界が無限に圧縮して潰れていく感覚というか、なんともいいようのない独自の趣がある。ここには何らかの真実が含まれているような感じがする。
自分の中には、この水の恐怖に対する、忌避する気持ちと、惹きつけられる気持ちの両者が共存している。
ときどき「味わって」みたくなるのである。
編集工学研究所が主催するWEBメディア「遊刊エディスト」に、2023年12月から2024年5月までの半年間、「遊姿綴箋(ゆうしてっせん)」というリレーコラムを担当しておりました。メンバーは、私を含む7人で、毎月一本ずつ、編集部から出題されるテーマに沿って執筆するスタイルのコラムでした。
そのうち、私が担当した6本の原稿のリンクを貼っておきます。
第1回「クリスマスは極めて日本的な美風だ」(テーマ「クリスマス」)
第2回「イタい年賀状を大放出!!」(テーマ「干支」)
第3回「マンガの中の「鬼」」(テーマ「鬼」)
第4回「夢も現も彼岸まで」(テーマ「彼岸」)
第5回「桜――あまりにもベタな美しさ」(テーマ「桜」)
第6回「文章が書けなかった私」(テーマ「苗代」)
こちらは連載スタートアップ時の紹介記事
「飛行機恐怖症」というのがあって、Wikipediaにも立項されているぐらいだが、重症になると、本当にヒドイらしい。
この恐怖症にかかっている人に対して、飛行機事故の確率が天文学的に低いという事実を、各種データを示すなどして説明したとしても、症状を解除することはできない。恐怖の源泉は、統計データなどの合理的なところにはないので、そこをアタックしてもダメなのだ。Wikipediaの「飛行機恐怖症の著名人」の中には、アイザック・アシモフのような、一流の科学知識を身につけた知識人も含まれている。
私には飛行機恐怖症というのがどういう恐怖なのか今一つわからない。当人にとっては、さぞかし怖いものなのだろう。
さて、私にもそれに類するものが一つある。
注射だ。
とにかく怖い。
あんな野蛮な風習が、この文明社会にいまだに残っているのが信じられない。肌に直接針を刺して穴をあるなんて無茶苦茶ではないか。なんで廃止されないんだ。人類の叡智をもってすれば、それに代わるもっとよい方法がすぐさま発明されそうなものじゃないか。科学者たちは真面目に考えてんのか。
子どもの頃から注射が怖くて怖くてしょうがなかった。注射がある日は、一日中、死刑執行を告げられた囚人のように怯えた。いや、もう注射のある日の一週間ぐらい前から憂鬱だった。
当日は朝から震え上がり、あと数時間、あと一時間と、そのときが迫ってくると、いよいよパニックに陥った。注射の列に並んだ時、ついに辛抱たまらず泣き喚いたことがある。小学校低学年の時のことだ。
幼稚園児ならともかく、さすがに小学生で泣くやつはいない。他の生徒たちは、あっけにとられた顔をしていた。
先生は、怖いことは早く終わらせた方がいい、などと気を利かせて、行列の一番前に私を連れて行った。
なんてことをしてくれるんだ。私は突如訪れた災厄に度を失い、絶叫した。
この事件は学年中に広まった。私は小学校を卒業するまで、ことあるごとに級友たちから「注射~」「注射~」とからかわれ続けた。
そんな低学年の時のことを、しつこく言われ続けることに腹は立ったものの、注射に対する恐怖自体は、その頃になっても全く目減りしていなかった。
いや、成人になってもまだ続いていた。
社会人になって最初に受けた健康診断の時、採血の最中に気分が悪くなり、いったん中断したことがある。しばらくベッドに横になって休むように指示された。
これで勘弁してもらえるのかと期待したが甘かった。もう一回最初からやり直すと言う。恐怖体験が二倍になるのである。これはたまらない。
それ以降、私は、たとえどんなに気分が悪くなっても、それを悟られないように気をつけるようになった。
子どもの頃、注射が苦手だった人も、大人になると、だいたい平気になるものらしい。自らすすんで献血などに行く人を見ると、とても信じられない気持ちになる。
何かの折に献血に関するアンケートに答えさせられたことがある。献血をしない理由の選択肢の中に「注射が怖いから」がないのが不思議だった。そんな理由など、普通の人は思いつきもしないらしい。
なぜだ。なぜなんだ。あんな無茶苦茶で狂った所業に、なぜみんな平気でいられるんだ。この世界はどうなっているんだ。
…とまあ、そんなことを言っている私も、もう初老と言っていい年齢ともなると、さすがに若いころほどの恐怖は感じなくなってきた。いまだに刺さっているところを見る勇気はないが、あさっての方向を向いて心を遠くに飛ばせば、なんとかしのぐことができる。
さらに加齢が進むと、注射はもっと自分に身近な存在になってくるのだろう。できるだけ慣れるように努めるしかない。
…とはいえ、そろそろ科学の進歩によって、注射が絶滅してくれてもよい頃合いではないの? …と、往生際悪く期待し続けている。