マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

伊達邦彦とは(Wikipedia風に)

概要

伊達邦彦は1933年ハルピン生まれ。父は製油会社の経営者だったが、会社乗っ取りに遭い零落。ほかに母と妹がいる。大戦中は北京・奉天・新京・平壌を転々とし、引き上げ後は四国の中学に進学。

ツルゲーネフからロシア文学に興味を持ち、ニーチェやニコライ・オストロフスキーに傾倒。共産主義にも興味を示し、マルエン全集を読み漁ったのちに、新聞部で天皇制批判の論説を執筆し停学処分を受ける。

その後、レールモントフなどにも傾倒し、演劇部に所属。

高校卒業後はプロテスタント系の神学校に入学。サッカーと油絵に熱中。のち神学を揶揄する論文を書いたことで放校処分に。

大学進学後、チャンドラーを知り、アメリカ・ハードボイルド小説に魅せられる。25セント判のポケットブックを数百冊読み漁りつつ、ボクシングジムに通い、大学では射撃部に所属。卒論は「ハメット=チャンドラー=マクドナルドに於けるストイシズムの研究」。

大学院に進学しアメリカ文学を専攻。翻訳の下請けアルバイトで生計を立てる。ジェームズ・ケイン『ミルドレッド・ピアース』の全訳もしていたようだが出版されていない(2021年、吉田恭子により初訳刊行)。

この頃より犯罪哲学に傾倒し始め、現実の犯罪に手を染めることを考え始める。1957年から59年にかけて、警官射殺をはじめ、違法カジノからの資金強奪、製薬会社の現金輸送車強奪、大学入学金強奪を行ったものとみられる。

その後、渡米しハーバードの大学院に進学していたが修士課程を終えて帰国。商事会社に短期間勤務ののち大学院講師と会社経営を兼務する。そのかたわら非合法活動にも手を染めていたらしい。三星銀行襲撃と京急コンツェルンの乗っ取り工作の容疑で捜査の対象となったところで逃亡。行方をくらます。

しばらくの潜伏ののち、大東電機の社長令嬢を誘拐殺人。さらに次女と結婚しようとしていたところで犯行が発覚。またしても逃亡。

国外に逃れた伊達は60年代半ば以降、ロンドン・タイムズ海外通信部に勤務。そのかたわら、英国諜報局破壊活動班員としても活動。モナコ王子救出作戦やニューヨーク核攻撃テロ阻止、日銀ダイヤ強奪阻止に携わったとされる。英国諜報局の職を解かれたのちはフリーエージェントとして、CIAや日本の内務局の非合法活動を請け負っていた。

70年代初頭の対北朝鮮活動を最後に長らく消息が途絶えていたが、その間、国外に逃れ、カナダの片田舎の製材所やモントリオールの安酒場のバーテンなどを転々としつつ過去の身分を洗い流し、その後、米国に長らく暮らしていたらしい。歌手のマドンナのボディーガードを務めたり、ヴァージニアの私立大学で日本文学講師として「三島由紀夫論」などを講義していた。

1991年1月、日本に帰国し、北辰大学英文科助教授の職を得る。その傍ら、米国国家安全保障局の仕事を隠密裏に請け負っている。核テロ組織をたった一人で壊滅に追いやった報酬として日本政府から百億ドル(1兆3500億円)の報酬を秘密裏に受け取る。うち1億ドルを使ってトンガ政府から小島を購入し、しばしの間生活の拠点とする。

ところが三年後の94年12月に起こったトンガ諸島沖大地震により、自身の所有するババウ島が水没。たまたまニュージーランドに滞在し難を逃れた伊達は日本に帰国。翌95年1月、国内に潜伏するイスラエルの秘密組織モサドとの間で抗争を引き起こす。原因は常温核融合に係わる新物質をめぐるものだったらしい。

これが伊達氏の活動の最後の記録となるが、翌96年、伊達氏と連絡の取れる唯一の人物であった伝記作家の大藪春彦氏の急逝により、その後の消息は不明。

合気道を習っていた頃

今から十年ちょっと前のこと、合気道を三、四年やっていたことがあった。

初段になる手前でやめた。

あれは対・他人の所作なので、思い返せば、私の最も苦手で、好きではないジャンルであった。結局それが苦痛でやめることになった。

 

ただ合気道のいいところは試合がないこと。

それから声を出さなくていいこと(他の武道系は必ずと言っていいほど声を出すことを要求される)。

この二点のメリットは限りなく大きかった。

(能の仕舞なども面白そうで、やってみたいと思ったこともあるが、なにしろ声を発して、謡わなくてはならない、という部分がネックだ。無言で動くだけならやってみたい。とにかく声を出すのが苦手で、当然、カラオケは、この世で最も嫌いなものの一つだ。)

 

合気道で、もう一つ嫌だったのが昇級試験だった。これは、別に合気道に限ったことではなく、あらゆるジャンルの稽古ごとにつきものの制度で、これを嫌がっていては、ほとんどの習い事はできなくなってしまう。

私は、別にゆとり世代ではないのだが、この手の試験とか競争の類が大の苦手なのだ。

それから、なんと言っていいのか、とにかく「偉い」感じになるのも苦手だった。

具体的に言うと、合気道では、初段になると黒い袴をはくのが決まりになっている(それまでは、普通の柔道着のような格好でやる)。

私は袴をはくのが、とにかく嫌だった。アホらしい告白になるが、初段になる手前でやめた最大の理由は、袴をはきたくなかったからだ。

 

昇級試験は実質的には強制だった。稽古を続けてある程度の段階になると、道場側から「次の昇級試験を受けよ」との指示が出る。次回受験者のリストに入れられるのである。

これを断ることはできない。絶対ダメというわけではないが「正当な理由もなく断るのは、審査の基準に達したと認めた先生の顔に泥を塗ることになる」というのだ。

入門当初の私は、昇級試験を受けずに、ずっと無級のまま居続けるのがいいな、などと気楽に考えていたのだが、それはできないシステムになっていた。

 

昇級試験ともなると、その日までに型をしっかり身につけて、身体に染み込ませなくてはならない。一人の練習だけでは、それはほぼ不可能で、誰かに手を取って教えてもらわなければ、まず無理だ。

私にとって、これは最大の難問の一つで、自主稽古の日などに道場に行っても、うまく人の輪に入ることができなかった。

道場の中では、自然なグループ分けのようなものが出来ていて、それも、目まぐるしく離合集散を繰り返す。立食パーティのような感じとでも言えばいいか。ほんのいっとき、グループに入れたと思っても、油断していると、また独りになってしまう。

結局、稽古場の片隅で、ひとり、首をかしげながら、動作の確認をする、というようなことになってしまい、やがて身の置きどころがなくなって早々に退散するはめになる。

こんなことを繰り返していたので、とにかく昇級試験が憂鬱で、できれば避けたいものの一つだった。とはいえ、断れぬ以上、これは受け入れるほかない。

 

しかし、袴をはくことだけはどうしても受け入れがたかった。それを避けるには昇段しない、という選択肢以外ない。

しかし、まじめに稽古していると、いやでも順調に昇級していき、やがて昇段の日が来る。私は、なんとしても、それを先延ばしにしたかった。

ある時の昇級試験で、私は思いのほか「上手く」できすぎたようだ。飛び級で、二級上がるという栄誉に浴した。

私はガッカリした。やめる日が早まってしまったのだ。

受験資格を得るには出席日数も関係している、ということも、あるとき知った。私は、受験者に選ばれないように、細かく出席日数を計算するようになった。

そうやって、一級(つまり次は初段)の最後の日々を過ごした。あと一、二回出席すると、昇段試験の名簿に載ってしまう、というぎりぎりのところまで通い続け、そしてフェイドアウトした。

 

いろいろ苦手な部分も多かったが、昇級試験のシステムさえなかったら、もうちょっと続けていただろうと思う。

他の道場を知らないので比較できないが、私の通っていた道場は、非常に家族的でフレンドリーな雰囲気に満ちており、感じのいいところだった。

しかし、私は、この親密なコミュニティの中に入ることができず、いつも孤立していた。

そのこと自体は、いっこうにかまわなかった。

ただ、そんな私のことを、かなりはっきり毛嫌いしている人物がいた。

その人は、なぜか私に対するときだけ、妙に険のあるとげとげしい態度で接してきた。

私も最初の頃はどうにかしようと、雑談を仕掛けてみたり関係改善を試みようとしたが無駄であった。

とにかくできるだけ、この人には近づかないようにしようと決めた。グループ分けの時なども、さりげなく、この人のところには混ざらないように気を付けた。

この人の場合は、むしろ極端で分かりやすかったのだが、彼以外からも、私はあまり好かれているようではなかった。言動の端々から、それは容易にうかがい知ることができた。

学校や職場はもとより、リアルなコミュニティで、私は、うまく適応できたためしがないので、こういった状況は、いつものことだとは言えた。

 

大雑把に、合気道には二人一組で稽古する型と、グループで稽古する型の二種があるのだが、その組み分けは、その場で即興で決められる。先生が、「はい、組んで」と言って、パンッと手をたたいた瞬間に、その場で組を作るのだ。これが私にはまったくダメだった。グループの場合はいいのだが、二人一組がダメなのである。

手近に座っている人と組もうと、近づきかけたら、あからさまに目をそらされたりする。これがけっこうキツかった。

反対に人気のある人には、人が殺到する。数人が小走りになって奪い合いになったりする。こういった攻防は、ほんの数秒の間に決着がつき、ふと気がつくと自分だけがあぶれている。もう毎回と言っていいぐらい、必ず自分があぶれる。

あぶれた者は、稽古場の端に下がって、正座しながら、みんなの稽古を見ることになる。

生徒の数が偶数だと、もう一人あぶれる人がいる。その人は必ず決まって同じ人物だった。

しかたがないので、私はいつもその人と組むことになる。この人がまた、あきれるぐらい体が動かない人で、まったく練習にならない。

初老のおっさんだったと記憶するが、とにかく、とろくてダメっぽい人だった。温厚で知られる先生も、この人には、よほどイラつくのか、ときどき声を荒げることがあった。

 

道場生たちは、ほぼ全員、この人のことを無視していた。

はっきり言って嫌われていたのだと思うが、「無視」という態度にとどめておくのが、せめてもの紳士的な対応とは言えた。

私と、この人とは、「無視」されている二人組ではあったのだが、お互い親密になることもなかった。

なにしろ、みんなから無視されるぐらい人好きのしない人柄なのである。私だって、この人のことは好きになれなかった。しかし、つねにこの人と行動を共にすることとなった。

 

そもそも自分には「合気」の精神が欠けていた。通い続けていくうちに、それが涵養されることもなかった。もともとゼロであったものに、何を掛けても増えはしない。

しだいに型が染み込んできて、今までできなかった独特の所作が、流れるように自分の身体から湧き出るようになる過程には、たしかに面白みもあった。しかし、他者と呼吸を合わせ、複素的身体を作る喜び、といったものは、自分には無縁のものだった。

これは資質的なものだから、もうどうしようもないだろう。

ともあれ、ほんの数年間の経験で自分が得たものといえば、「やっぱり自分には独りが向いている」という、前から分かり切っていたことの、あらためての再確認だけであった。

まあ、面白い体験ではあった。

読書記録をつけることの弊害

高校進学を控えた15歳のある日、「これからは年に100冊本を読むぞ!」と決めた。それまで、ほとんど本を読む習慣などなかったのに...である。

きっかけは、あるマンガ編集者のインタビュー記事だった。

「マンガ家になりたいなら、本をたくさん読みなさい。最低でも年に100冊は読まなくてはならない」

と、その編集者は言っていた。

その言葉を真に受けたのである。

なんとなく本というのは面白そうだ、という内的欲求も高まっていた頃だったのだろう。

「よし!高校に入ったら年に100冊、本を読むぞ」と決心した。

年100冊読むためには、月8冊、週2冊の見当で読まなくてはならない。ノルマを課し、達成度を確認するために、大学ノートに読んだ本のタイトルと読了日をつけ始めた。

一年目は年100冊など、とうてい届かなかった。「来年こそは!」と思った。

しかし、その翌年も、その翌々年もダメだった。

いつしか年100冊の目標は諦めるようになった。

しかし、ノートに読んだ本の記録をつける習慣だけは続いた。実は今も続いている。十代半ばからこれまでの間に読んだ全ての本の読了日が大学ノートに記録されている。

最近は、読んだ本の内容はおろか、読んだかどうかすら、あやふやになってきたので、この記録は大変重宝している。

 

しかし、弊害もある。

斜め読み、拾い読みができなくなってしまったのである。

 

読書記録をつける際に厳格なルールを設定した。

きちんと読んだ本だけを記録する、というルールである。

1ページでも読んでいないところがあれば、それは「読了」したことにならない。

こうして、ルールを決めたことによって、ヘンな症状が出始めた。

拾い読みで1~2割程度読む場合はいいのだが、7~8割読んでしまった場合、残りの部分も、無理してでも読もうとしてしまうのである(単にノートにつけたいだけのために...)。

それは全く意味のないこだわりなので、できるだけ頭から払いのけようとするのだが、完全に拭い去ることができない。「ここまで読んだのだから、もったいない」などとアホらしいことを考えてしまうのである。

また、速読やナナメ読みでは、なんとなく「読んだ」という感じがせず、ノートにつけることに後ろめたさを感じる。そこで、できるだけちゃんと読もうとしてしまう。

ノートをつける習慣が、多様な読書のあり方を阻害しているのだ。

 

かといって、この習慣をやめるわけにはいかない。人生の大部分をこのスタイルの読書で過ごしてきた。読み終わった本をノートにつけないなんて、そんな恐ろしいことは想像することもできない。

たぶん、この習慣は死ぬまで続けられることだろう。

ジョギングしている人について僕が語ること

もう長いこと運動はしていない。

十年ぐらい前までは、合気道なんてのを、ちょっとだけやっていたが、それ以後は、まともな運動もせぬまま今にいたっている。

通勤の行き帰りに歩いているのが唯一の運動だ。

歩いていると、よくジョギングしている人とすれ違う。息を切らせながら一心不乱に走っている人を目にするたびに、この人たちの煩悩の深さに思いをはせる。この人がこうした行動を取るにいたるまでには、いろんな心のうごめきがあったのだろう。

 

村上春樹が、走ることについてのナントカいうジョギングについてのエッセイを書いていたが、この人も案外、体型とか気にするんだなと思った。

作家として身を立てていくにあたって、健康が何より大事だから、とかなんとか理由をつけていたが、結局ほんとうの理由は「体型」だろう。

「健康」とか「長寿」を第一の目的としてジョギングをしている人なんているのかね?などと思ってしまうのは、私の性根が曲がっているせいなのか。しかし、実際のところ、ふつうの動機は「痩せたい」とか「腹を引っ込めたい」とかだろう。同時に体も「健康」になるなら一石二鳥、というところだ。

たかが健康のため、と言うには、ジョギングはあまりにも面倒だ。二百年前ぐらいの江戸時代なら、理由もなく一心不乱に走っている人を見かけたら、気がふれたかと思われただろう。目的もなく疾走するなど、生物として不自然極まりない。

この異様な行動に、合理的な意味と説明が与えられ、それがそれなりに浸透したおかげで、今の我々は、街中を人が走り回っている光景に何の違和感も覚えなくなっている。

しかし、必死に走っている人を見ると、煩悩を顔面に貼りつかせているようで、ちょっとだけ痛ましい気持ちになる。

そんなに見た目が気になるのか。

…とか言っている私も、四十を過ぎたあたりから頭髪が薄くなり始めているのに気づいて少なからぬショックを受けたし、いつの頃からか左の頬に大きなシミができてきたのも気になっている。見た目は人並みに気にしているのである。他人を嗤うことはできない。

はたして、この煩悩を解除することはできないのか。

たぶん、この煩悩は、人間の持つ煩悩の中でも、最も根源的なものにあたるだろう。そう簡単に克服できるものではないはずだ。いやむしろ克服してしまったら、人間ではなくなってしまうのではないか。どんなに修行を積んだ人間でも、この煩悩を完全に脱却できたものなど、いないのではないか…と想像するのである。

 

思えば私は若い頃からカッコつけることが苦手だった。

十代も半ばを過ぎると、男子たちも色気づく年頃となり、トイレなんかに行くと、鏡の前で、必死に髪の毛をいじくっている同級生たちの姿を目にすることになる。

私は、あれがどうにも落ち着かなくて嫌だった。「な~に、カッコつけてんだか」と思った。「ボクは服とか髪型とかには興味がないのだ」と思っていた。

たしかにオシャレに興味がないのは、昔から今にいたるまで一貫している。

しかし、見た目が気にならないわけではなかった。いやむしろ、他人の目に自分がどう映るかは、人並み以上に気になっていた。羞恥心が異様に強く、ガードが堅かった。飲み会その他のカジュアルな場面で、臆面もなく胸襟を開いて、不格好な振る舞いをする知人たちの姿を見て、なぜそんなことができるのか不思議に思った。

一方で、「カッコつけ」というものに対し、妙に嫌悪感を覚えてしまう私は、つねに、身だしなみに無頓着であるかのように振る舞おうとした。しかし「無頓着を装う」ということも「装い」には違いない。むしろ素直な「装い」以上の高次な「装い」とも言える。

 

福田恆存は、Snob(スノッブ)の訳語としての「俗物」について、面白いことを書いていた。彼によるとスノビスト(俗物)と一口に言っても、いろいろなタイプがあるという。福田はそれらを、いちいち解説していく。

いわく、知的俗物、交際俗物、孤独俗物、不器用俗物、個性俗物、少数者俗物、エトセトラ、エトセトラ…。

こう列挙した挙句、ついには反俗的俗物なるものまで登場する。これはここまで列挙してきたあらゆる俗物のタイプから逃れるべく腐心する俗物、つまり俗物中の俗物なのだ。

つまり他人の俗物性に過敏になり、「自分だけはそうなるまい」と意識すればするほど、かえって俗物性は純化し、結晶化される。混じりけのない、完璧な俗物が誕生するのである。

たぶん「見た目を気にする」とか「カッコつけ」とかも同じ構造をしているのだろう。いやそもそもスノビズムというものこそが、他人の目から見た自分を気にすることから発しているのだ。

 

こうして、ジョギングしている人の姿を見るたびに、私はこの人たちの煩悩の深さに思いをはせつつ、いやいや、もっと煩悩が深いのは自分の方だぞ、と思うのである。

 

【2025/1/15追記】

ジョギングしている人から反論があった。

ジョギングのことをよくわかっていない人の文章だと言う。

ジョギングというのは、健康だの、腹を引っ込めるだの、そういうことではないらしい。走ることそのものに対する無上の喜びを知らぬ者に、ジョギングを語る資格はないそうだ。

そう言われれば、そうかもしれない。

たしかに、走ることによる、ある種のトランス状態から、心が洗われるような気持ちになることはあるだろう。自分と向き合うことによって、学びや気づきを得られることも多いらしい。走れば走るほど、心が健康になり、人間が豊かになる、ということにウソはないと思う。

 

しかし、そういったことは全部、あとからくっついてきたことなのではないか。

それほど走ることそのものに独立した価値があるのなら、人類は、もっと早くにそれを発見していたのではないか。

酒や煙草や麻薬や座禅のように。

近年になって、ジョギングという様式を獲得してみれば、意外と別の効用があることがわかった、というだけのことだろう。

それも、それほど独立した価値を主張できるほど強いものであるかは疑わしい。

いくら、心の健康にいいからといって、体の健康に一ミリも影響がないなら、好んで走る人などいないのではないか

もしも、人間の身体が、走れば走るほど不健康になる構造をしており、それでも走る人が後を絶たないなら、その時こそ、さすがの私も「ジョギングはホンモノだ」と認めざるを得ないだろう。

無意味な贅沢

こちら(↓)は、はてなブログからのメールで紹介されていた記事。話題になっている記事ということなのだろう。

note.com

自分が一生体験できるはずのないことを詳細にレポートしてくれてありがたかった。

これを読んではっきりしたのは、飛行機のファーストクラスとやらは、まったく大したことはない、ということである。

少なくとも40万円という対価に見合ったサービスはしていないのは間違いない。座席などが多少ゆったりしてるとか、機内食なども、それなりに良いものが出てくるとか、執事風の人が接客したりとかいった、取るに足りないサービスで精一杯塗り固めているだけで、工夫の中途半端さに、むしろショボさすら感じさせるほどだ。もともとA地点からB地点まで移動するだけのサービスなので、やれることなど高がしれている、とも言える。

これはブランドものなどの顕示的消費と同様の、実体的な価値とは別次元の何かにカネを払っている、ということなのだろう。

連想したのは料理の値段のことだ。

これも実体的基盤がアヤシイといえばアヤシイものの一つで、世の中には何十万円もする高級フルコースもあるやに聞くが、十万円のフルコースが一万円のコースの10倍旨い、などということは考えられないので、これもまあ意味不明の何かにカネを払っているのだろう。世の中には使い道に困るほどカネが有り余っている人もいるらしいので、そういう人は、そういうところに、じゃんじゃんカネを捨ててポトラッチに励んでいただきたい、とあらためて思うのであった。

外食などで、実態に見合った料金というのはどれぐらいなのだろう。

せいぜい五千円ぐらいじゃないのか。それ以上の値段の料理になると、さして変わらないんじゃないか。

むかし、(今もあるのか?)ダウンタウンの浜田が司会をする、食材の良し悪しを判定するというバラエティ番組があった。高級食材と、スーパーで売ってるような安価な食材とを並べて、どっちがホンモノかを当てる、というもので、食通を自認するセレブなタレントが、けっこうハズしまくる、というのが番組の目玉であったように思う。

さらに思い出すのは『もやしもん』の何巻目かの巻末エッセイで、一流のソムリエであっても、全く情報を伏せたブラインド・テイスティングというのをすると、思いっきりハズしまくる、という話もあった。一流ソムリエたちが、ふだん小バカにしているアメリカのカリフォルニアワインなどが評価の上位に来たりするらしい。

なるほど、そういうもんなのか…。

もちろん高級品には、それなりに手間も費用もかかっているのだろう。しかし、かけた手間が、製品の効用に正確に反映されるかどうかは別問題だ。手間のわりに大して変わらん、ということも往々にしてあるだろう。

 

こういう話には心温まるものがあるなあ。貧乏人ならではの庶民的感想ではあるが。