マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

ご本人がいかに否定しようとも『〈子ども〉のための哲学』は名著である

永井均さん自身にとっては、『〈子ども〉のための哲学』という本は、もう古すぎて、あんまり読んで欲しくなさそうなのだが、私が人に、永井均的なるものを説明しようと思うと、やはり挙げたいのは、この本なのだ。

この本以上に、問題点がクリアに明示されているものは他になく、哲学のド素人が読んでも、その意味するところがダイレクトに伝わるからだ。

この本を読んでも全くピンとこなかった人は、ここでお別れということになるし、ピンと来た人は、永井氏公認の最近の著作に進んでいけばいいだろう。読者を振り分ける最初の関門としては、やはり最も適切な書物であると思う。

こう思ってしまう原因の一つは、私自身の体験によるところも大きい。私は、『〈子ども〉のための哲学』によって、この問題に目を開かれ、以後、永井氏の全著作を読むハメになったのだが、別の登攀ルートが可能だったかと考えると、ちょっと心許ないのである。初めて出会った本が、もしも永井氏自身の推薦する『世界の独在論的存在構造』であったとしたら、どうだったろう。ちょっと歯ごたえがありすぎて、読み通すだけで青息吐息だったのではないか。そして「一応、通読したぞ!」という満足感だけで本を閉じてしまい、次の一冊に手を出すこともなかったのではないか。

もちろん、哲学的感度が高い人なら、この本でも大丈夫かもしれない。

『〈子ども〉のための哲学』の中に、哲学を潜水に例える話が出てくるが、最初から平気で数十メートルも素潜りできる剛の者なら問題ないだろう。しかし普通の人は、浅瀬でパチャパチャするぐらいのことしかできないのである。

しかし、適切な形で手を引いてもらい、少しずつ体を慣らしていけば、そんな者でも、かなりな深さまで潜れるようになる。

現実と夢の関係、人によって見える「赤」の違いの問題、過去方向と未来方向で様相を異にする人格の同一性の問題などなどについて、私は当初、かなり素朴な解釈をしていた。そして永井氏の説明の意味が理解できないことがしばしばあった。何度も何度もこの問題に立ち返ることによって、徐々に自分の考えの誤りや浅さに気づかされたのだが、それには、かなりの長い年月を要した。一気呵成に理解できるようなものではなかった。この長い道のりを耐えることができたのも、最初の入口が『〈子ども〉のための哲学』であったからだ。自分が子どもの頃から抱いていたあの問題が、間違いなくここで論じられている、という確信があったからだ。

私は永井氏の著作に出会う前から、あの問題を知っていた。子どもの頃から、何度もめまいのするような変性意識を体験してきた。

一番デカイのがきたのが二十代半ば頃の、ある日の晩だった。寝床で突然、あの変な感覚が訪れ、考えれば考えるほど恐ろしくなってきた。

その翌日、か、あるいは少なくともその数日以内に、私はさっそく図書館に走った。

こんな、とんでもない問題に誰一人気づいていない、なんてことは考えにくい。世の中には人間がたくさんいるし、信じられないぐらい頭のいいヤツもたくさんいる。この問題も、必ずやどこかの誰かが取り上げ、論じているに違いない。ジャンルとしては、まあ「哲学」だろう。そう思って、図書館の哲学コーナーに走ったのだ。

果たして、哲学の棚を見ると、そこには「自我」だの「自己」だのという名称をタイトルに冠した書物が、たくさん並んでいた。このあたりだと目星をつけた私は、さっそく手当たり次第にパラパラめくり始めた。長い時間をかけて、いろいろな本をつまみ読みしていくうちに、私の心は次第に暗澹としてきた。昨夜、私の心を襲ったあの名状しがたい感覚というのは、こういう問題だったっけ?

なんか違うような気もするのだが…。

こうして私の強烈な変性意識体験と、その後の行動はいったん打ち切りになった。なんとなく時間が経過するにつれ、あれは、ほんのいっときの気の迷いのようにも思えてきた。平穏な日常が戻ってきた。

 

そして私の中で、この問題が毀損されるもう一つの事件があった。

私は大学を出て、ごく普通に就職したのだが(正確には二度目の就職。詳しくはコチラ)、その就職先の赴任地が、いきなり山奥の土木事務所だった。周りにまともな会話を出来る者など一人もおらず、職場で話題に出るのは野球やパチンコの話ばかり。ネットもない時代だったので、かなり孤独で心細かったのを覚えている。

そんな中で唯一会話の出来る人物が、同期入社のTくんだった。彼は趣味が読書という頼もしい人物だったのだが、どんな本を読んでいるの?と聞いたら、司馬遼太郎とか『逆説の日本史』とかいう名前を出してきた。うむむ、とは思ったが、野球やパチンコの話しかできない他の人よりは遙かにマシである。

彼とは仕事帰りの夕飯をいっしょにしたりして、いろいろな話をした。話はあちこちに飛び、ふとしたはずみに、ちょっとした哲学風の話題に転ずることもあった。そんなあるとき、私は以前から考えていたあの問題を口にしてしまったのだ。

私は、この感覚を誰でも一度は体験したことがあるのではないかと素朴に考えていた。ましてや趣味が読書で高学歴な彼なら、ちゃんと説明すれば、たちどころに意味が通じるだろうと安易に思い込んでいた。

「ああ、オレもそれ思ったことある。不思議だよなあ」と同意を得た上で、あれこれ話ができるものと期待していたのだ。

ところが、いざ切り出してみると、話は驚くほど一ミリも通じなかった。

そこに何の謎もない、と彼は断言した。自分がなぜ存在するのか、それは両親の精子卵子が受精したからだ、それ以外の説明はあり得ない。

「オレはオカルトとか全く認めない立場なんだよね」と彼は得意げに言った。

いや、そういう意味じゃないんだ、と私は説明しようとしたが、彼はそれを遮り、「いや、もったいぶっていろいろ言ってもダメだ。オレに言わせれば、それは、はっきりとオカルトだよ」と言い放った。

私はその後もしつこく彼を説得しようとしたが、何を言っても彼はいっさい受つけなかった。これはもう無理だとさすがの私も気がついた。悔し紛れに私は最後っ屁のようにこう言った。

「まるで目の見えない人に、見えるとはどういうことか説明しているような気分だよ」

「なに!?」

彼は、この言い方にかなりカチンときたようだ。

「よおし、わかった!!じゃあ、オレにもわかるように、とことん説明してもらおうじゃないか。今からお前のうちに寄ってもいいか」

私は、もうこれ以上、話を続ける気力を失っていたのだが、彼のもの凄い剣幕に逆らうことは出来なかった。

その日の晩、私は彼を自分の下宿に請じ入れ、話の続きをした。その後の展開は、思い出したくもないほど悲惨なものだった。

このときの私は、すでに彼を説得することを諦め、一昔前に流行った現代思想ジャーゴンを連打し、ハッタリ的言辞で彼をケムに巻く作戦に出た。

本棚の蔵書を適当に取り出して「この本にも書いてあるんだけどさあ」などと言いながら、いかにも意味ありげな理屈を披露してみせた。最初はフンフンと話を聞いていた彼も、だんだんと興味を失っていき、「そういう話なら、オレはもういいや」と言って帰って行った。

この事件は、のちのちにいたるまで深刻な傷跡を残した。

あの問題は、私にとって、極めて私的な、そして繊細な問題であった。それを不用意に外に出してしまい、手痛いしっぺ返しを受けた。

その後、私は、あの問題を冷静に考えることが出来なくなった。考えようとすると、必ず彼の顔が頭に浮かんだ。頭の中で彼を説得しようとした。問題そのものに直接触れることが出来なくなっていた。

やがて私はこの問題を考えることがイヤになっていき、心に蓋をするようになった。

 

それから、さらにしばらく経ってからのことだと思う。

ある日、私は書店で、『〈子ども〉のための哲学』という本を目にした。とっつきやすいタイトルに惹かれたのか、なにげなく、それを手に取り、パラパラと中をめくってみた。

その本の中ほどに、一つの図があった。四角形が縦横に並べられ、世界a、世界bなどと描いてあった。さらの各列の一つずつが太枠で示されていた。

その図を見た瞬間に、私は一瞬で理解した。

「あの問題だ!! あの問題が書かれている!!」

間違いようがなかった。他のどの本にも書かれていなかったこと、そもそも言葉で書き表すことが不可能なように思えたあのことが、なんとここに書かれてあったのだ。本文を一行も読む前から、あの図を見た瞬間に、それはほぼ確信に近いものとなっていた。

その本を直ちに購入し、熟読したことはいうまでもない。

読後のインパクトが、どれほど凄まじいものであったか。それはちょっと言葉では言い表しようがない。今でもあれを超える読書体験はなかった。のちに永井氏自身による、より精妙な議論を読むことになっても、これを超える体験は出来なかった。

これは極めて私的な体験であり、どれほど一般化できるのかはわからない。しかし、この体験がある限り、『〈子ども〉のための哲学』が、たぐいまれなる名著である、という私の確信は揺るぎようがないのである。

選ばれし者と死屍累々

自分が下手の横好きでマンガを描いてネットにアップするようになってから、あらためて気がついたのは、とにかく世の中にはマンガを描く人がもの凄く多いということだ。

もちろん知ってましたよ。ふだんは視界に入っていないだけで、この世界には、実は膨大な裾野があるだろうことは…。

しかし実は、真の意味で、ちゃんとは、わかっていなかったのだ。本当に、もの凄く多いのである。そして自分はその中の底辺中の底辺であることも思い知らされた。

 

私はそれほど、うぬぼれの強い方ではない(と思う)。

等身大の自分を認識している(つもりだ)。

しかし、その認識も今となっては、かなり甘かったと言わざるを得ない。

SNSやマンガ投稿サイトに作品を投稿し、その手応えにショックを受けるたびに、認識の下方修正を繰り返してきた。

この程度ならいけるんじゃないか、という「この程度」が、とんでもなく高いハードルであることを何度も思い知らされた。

もうだいぶ、等身大の現実に近づいてきたのではないかと思う。(いや実は、この期に及んでもまだ「もう少しなんとかなるのではないか」という希望は捨てきれていないのだが…)

 

批評家の呉智英氏は、かつて「角界死屍累々説」というのを唱えておられた。

現在はどうなのか知らないが、相撲人口というのはもの凄く多い。その中でプロの力士になれる者など、ほんの一握りしかいない。村一番の力持ちとして、地元の期待を一身に背負い、田舎から出てきた若者が、相撲部屋に入ってみれば、そこには同じような者がゴロゴロといる。生まれてこのかた相撲で負けたことなど一度もない、というような凄腕同士がしのぎを削りあうのである。そしてその大部分が振り落とされる。生き残った者の下には膨大な数の死屍累々の山が層をなしている。

テレビ放送の夕方近くの時間帯に取り組みを行う幕内力士たちは、文字通り頂点を極めたエリート中のエリートなのだ。

我々シロートは、相撲中継などを見て、「あいつ、弱えーな」とか平気で論評したりするが、その「弱えー人」は、実は相当なレベルの実力者であり、選ばれし者なのである。

そもそも角界に限らす、どんなジャンルでもそうだろう。我々一般人は、普段、もの凄く巨大なピラミッドの頂上付近の先端部分しか視野に入っていない。

自分を含めた世界の遠近感がかなりおかしくなっていることに気づかないのだ。頂上付近の神(カミ)的な人々が、かなり至近距離に見えてしまっているのである。

そもそも神(カミ)的な人であればあるほど、意外と簡単に目にすることができる。

ちなみに私は、歴史上の偉人の一人であるビートルズポール・マッカートニーを肉眼で見たことがある。彼のコンサートに行ったからだ。

これは世界に数十億人いる無名の一般人の中の、特定の個人に会うより、むしろ容易なのだ。向こうはこちらを一ミリも知らないが、こちらはけっこうよく知っている。冷静に考えれば、彼我の距離は何万光年も離れているのに、けっこう近くに感じている。

ましてや、ポールほど桁違いに凄い人でなく、そこそこ凄いぐらいの人なら、もっと簡単に接近できる可能性がある。そういう人は公の場に姿を現す機会も多い。その人の登壇する集まりに出向いたりして、ことによると話しかけることもできるし、しつこく接近し続けていれば、そのうち先方に顔と名前ぐらい覚えられることもないではない。もうすでにこのへんで距離感覚は十分おかしくなっている。

あるいは、古今東西の偉人たちの動向をウォッチしたり、文献資料を博捜したりしているうちに、かなり身近な隣人になってしまったりすることも珍しくない。

私たちは普段こうした狂ったパースペクティブの中で生活しているのだが、ほとんどは傍観者としてウォッチしているか、タニマチとして贔屓にしている程度のことなので、特段不都合はない。そのフィールドに自らも参入してみて、初めてその彼我の差がいかに桁違いであったかを知るのである。

自分は関羽張飛などではなく、それどころか名前のついた雑魚キャラですらなく、「わあわあ」とか言って、あっさり討ち死にする雑兵の一人であった。「この日の戦闘で三万の兵を失った」と一行ですまされる者の一人であった。

そして大部分の人間はそちら側なのである。テレビや映画や小説やマンガなどで感情移入して胸を熱くするあの人たちではないのである。

 

まあ、そんなことは前から知っていた。上に書いたようなことは、若い頃からずっと考えてきたことだった。

しかし、本当には知っていなかった。この年になって初めて思い知らされたのである。

三島にとって死とはなにか 「憂国」―映画版 (1966年)

 

2005年8月、三島由紀夫主演「憂国」のネガフィルムが発見された。

それまでこの作品は、三島の死後、三島夫人によって、上映停止、及びネガフィルム全焼却が命じられ、フィルムは現存しないものと信じられてきた。ところが、三島夫人の死後、三島邸を整理する過程で、この幻のフィルムが発見されたのだと言う。

翌2006年4月、この映像作品は、DVDとして、東宝と新潮社より、相次いで発売された。

 

私は当時、ほんの好奇心からこのDVDを購入し、鑑賞した。

そして、この作品を観れば、たしかに三島夫人がフィルム全焼却を命じた理由もわかるような気がしたのであった。

あの1970年の自衛隊市ヶ谷駐屯地での一世一代のパフォーマンスも、結局、憂国のメッセージでもなんでもなく、ただの個人的趣味の延長であることがバレてしまうからである。

まあ、もともとバレバレであったとも言えるのだが…。

 

あのとき、市ヶ谷バルコニーで演説をぶつ三島に対して、自衛官たちのヤジと怒号の集中砲火が起こることは、むろん三島は織り込み済みであっただろう。

むしろ、まかり間違って、あそこに集まった自衛官たちが、三島の決起の呼びかけに答えて

「なるほど、そのとおりだ!!」

「よし!! 我々も三島センセイにつづけーッ」

などとなってしまったら、あせったのは三島の方だろう。

あくまで、あの場で三島は、彼らに「失望」し、無念の涙とともに自決の場へ赴かなくてはならなかった。いや、ほんとに上手くいってよかった!!

 

ところで、映画の方の出来はどうかというと、まあはっきり言って原作には及ぶべくもない。とはいえ、原作にあったようなリアルな日本家屋の描写はやめて、モノクロの簡素な能舞台だけにし、ワーグナートリスタンとイゾルデ」をバックに、無言劇でまとめるなど、いろいろ工夫してはいる。

 

しかし、役者が二人とも、そろいもそろって、あまりにも貧相なのは、いかんともしがたい。顔も演技も、とても二人劇を持たせられるような水準ではない。

主演はどうしても三島がやりたかったのだろうから、やむを得ないとしても、女優の方はなんとかならなかったのだろうか。

 

三島曰く

 相手役の女優の選定は困難をきはめた。(中略)二、三の女性に会ってみたが、それぞれに長所はあっても、やはり私のイメージに合はなかった。この中尉夫人は妖艶でありすぎてもいけず、色気がなさすぎてもいけなかった。(中略)彼女こそ、まさに昭和十年代の平凡な陸軍中尉が自分の妻こそは世界一の美女だと思ふやうな、素朴であり、女らしく、しかも情熱をうちに秘めた女性でなければならなかった。(中略)しかしこれも藤井氏のおかげで二月十八日に山本典子といふ女性を紹介されたところで解決された。(中略)私はまづ彼女のナイーヴな外見や態度に、求めてゐたものが得られたと感じた。

 

これは、さすがに褒めすぎではないか?三島一流のレトリックというか、まあ、正直に言って、結局、女優はいいのが見つからなかったのだろう。いくら三島が上のように強弁したとしても、役者の貧相さは、この作品にとって瑕疵にしかならないと私は思う。

 

ところで、肝心の切腹シーンはどうかというと、さすがにここは頑張っている。

原作の方でも、エグい感じでギンギンに描写しているが、映画版の方でも血しぶきやら腹からこぼれる内臓などを、たっぷり見せてくれる。というより、これがやりたいためだけに、三島はこんな映画を作ってしまったのだろう。ほとんどマンガ「シグルイ」のノリである。

(そういえば、三島は、武士道残酷モノで知られる異色のマンガ家・平田弘史をいち早く評価した人だった。)

 

三島にはこうした、人々の耳目を集めるキッチュなパフォーマンスを好んでやりたがる人ではあった。空手・剣道・ボクシングや、ボディ・ビル、映画俳優への挑戦、ナルシス全開の耽美写真集に、自衛隊体験入隊楯の会の反動右翼パフォーマンス、ギリシア風味の豪邸などなど、とにかく三島には、キッチュであやしげなアイコンがてんこ盛りである。

世界的文学者という像と、これら色モノ的アイテムの数々とのギャップがまた、三島の魅力の一つになっていて、今でも多くの人々を惹きつけているのだろう。

 

一見すると、三島はただの奇人変人のようにも見える。

しかしもちろん、三島はバカではい。すべて、わかってやっていた(そのつもりだった)。たしか、三島は「自分には無意識はない」というようなことを言っていたはずだが(出典は思い出せない)、ここにも全てをコントロールしているという三島の自負心が現れている。

 

三島には、優れた審美家としての目線と怜悧に世界を分析する理知的な知性とが、絶妙なバランスで同居していた。彼の優れたエッセイに現れる冷静なたたずまいと、映画「からっ風野郎」などで見られる無様な大根演技は、どうにも結びつかない。しかし、そんなちぐはぐさが、また三島の絶妙な味わいになっていて、そのことも三島は自覚していただろう。

 

しかし、きわめて豊かで繊細な感受性の持ち主であった三島由紀夫も、死の不条理に対する感度だけは欠けていたのではないか。彼にとっては、死も、エロスとタナトスの美の饗宴の一つに過ぎなかった。彼は自衛隊市ヶ谷駐屯地で腹を切って、まさに絶命する最後の瞬間まで、死の不条理というものに思いをはせることはなかっただろう。

むしろ、三島にとって真の恐怖は、この自決が失敗に終わることだったはずだ。

たしかにそうなる可能性の方がはるかに高かった。

悲惨なぐらい介錯がヘタだった森田必勝は、何度も三島の首を斬りそこない、三島は塗炭の苦しみを味わったという。あの状況で首尾良く自決が成功したのは僥倖と言うほかない。バルコニー前に集まった自衛官たちが、ほんのちょっとでも蛮勇をふるい早めに総監室に突入していれば、三島をはじめ、盾の会の面々はあっさり逮捕されていただろう。

その後に続く長い裁判闘争、刑期確定、収監となり、ようやく出所した頃には、三島もいい年になっていて、「若い盛りに花と散る」と言うには、とうが立ちすぎ、その上、二度目の自殺パフォーマンスなど喜劇にしかならないことは、聡明な三島なら分かるはずだから、観念して余生を送ったことだろう。健康であれば今世紀に入るまで生きていたのではないか。

そうなれば、文学史における三島の位置づけは今とはちょっと違ったものになっていたかもしれない。あの三島が筆を折ることは考えにくいので、今の我々が目にすることのない、多くの文章を残しただろう。

その上ことによると、だんだん時代とかみ合わなくなってきて” 終わった人”のようになっていた可能性もないではない。

三島にとって、それだけは絶対避けたい事態だったはずだ。自分の人生の全てを「三島由紀夫」という一個の作品として完璧に磨き上げること、それこそが彼にとっての願いであり、死の問題というのは、それに付随する、生理的な恐怖心をいかに制御するかの問題でしかなかったと思う。

 

これも、一つの生き方の極北だったと思う。

確かに彼の生き方は、あまりに異様で滑稽ではあったが…。

しかし我々ふつうの人々の生のあり方も、結局は、彼のとった、極北としての生き方と地続きなのではないか。

「あの世」なんてない

遊刊エディストのリレーコラムでは、毎回、その月のテーマというのが決まっていて、今月のテーマは「彼岸」だった。

私は「あの世なんて(たぶん)ない」と思っているので、そのことを率直に書いた。

しかし、さすがにお題に、まっこうからケンカを売っているようなので、一応の申し訳として、後半で、お題の趣旨に沿った文章を無理矢理つけくわえた。

 

はたして編集部の方から物言いがついた。

後半部分は興味深く読ませてもらったが、前半は余計な感じがするので、「あの世はない」ウンヌンの話は冒頭四、五行ぐらいにまとめていただき、後半部分だけの内容で再構成してもらえないか、とのこと。

編集部としては妥当なご指摘ではある。だいたい、苦し紛れの付け足しなどしてしまったせいで、文章が全体にゴタゴタして間延びしてしまっている。

前段をばっさりカットした方が、まとまりがよくなるのは間違いない。

しかし、書いている当方の身にしてみれば、本丸は前半部分で、後半は付け足しなのだ。

まあ、そんなことを言ってもしかたがない。大家さんの言うことには素直に従わないと掲載してもらえない。

というわけで、ばっさりカットした前半の文章を以下に掲載することで、自分への慰めとしたい。

もっとも、遊刊エディストの記事は、大家さんの力もあって、たくさんの読者がいるが、こちらのブログは1記事あたりの平均閲覧数が数人、という寂しいサイトなので、あんまり慰めにもならないのであるが・・・。

 

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以下、没原稿

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 今月のお題は「彼岸」である。

 うっ…「彼岸」なのか…。

 ハッキリ言って苦手分野である。このテーマについては他のコラムニストの方々が、もっとイイ感じの、味わい深い話をしてくれると思うので、この際、私は無粋な話をさせていただく。

 

「死ねば死にきり。自然は水際立っている。」

 と、高村光太郎は言った。私の考えも同じだ。

「死後の世界はあるのかないのか」といったような話は、カントのアンチノミーのような、原理的に答えの出せない問題で、「こうだ」ということは絶対に言えない。

 絶対に言えないのではあるが、限りなく確信に近い形で、「あるわけがない」と思っている。私のこの確信を崩すのは、ほぼ不可能ではないか、というほど根強いものだ。

 なんでそう思うのかと言われると、説明が面倒くさくなるが、くだくだしい説明をすっ飛ばして言うと、「様々な状況から総合して、そうとしか思えない」ということである。

「世界がある」ということそのものに対する驚きは、人一倍あるものの、世界の仕組みそのものに関しては、私は極めて常識的な科学的合理主義者であり、それで済むと思っている。

 とはいえ、その科学的世界像といえど、量子的、宇宙論的レベルになると訳のわからないことも多く、魔術的な怪しい香りを放ちはじめる。

 私たちの住むこの物理的宇宙は思いのほか謎に満ちていて、ことによると「魂の不滅」だの「あの世」だのといった概念を招き寄せかねないほどの勢いである。

 しかし、やっぱり…、ないだろうなあ~。

 

…というと、なんだか平板で味気ない世界観の中で生きているように思われるかもしれないが、むしろ私は「死ねば死にきり」の世界観の方が、よほど玄妙で不条理さに満ち満ちており、味わい深いものだと思っている。

 先日、『情報の歴史21』の講座にも登壇された鈴木健氏は、ひところ「戦慄系」なるものを唱えておられた。いわば「萌え系」の対抗概念なのだが、戦慄系の例として、カントール対角線論法、無限論、量子力学の不確定性、ウィトゲンシュタインの他我論などが列挙されていたと思う。

 こういうキーワードはなんとなくわかる気がする(ちゃんとはわかっていないが…)。私はあきらかに戦慄系である。

 こういった戦慄的な事柄について考えているときに、 “彼岸”なんて生ぬるいものを出してこられると、銭湯で熱い湯を楽しんでいるところに水を足されるようで「うめるんじゃねえ!!バカヤロウ!!」と一喝する江戸っ子ジジイのような気分になるのである。

 彼岸は、やっぱり人間くさすぎてダメだ。

 人知を超えた何か、人間の悟性の範疇を超えたもの、といったことに思いをはせるとき、どうも「あの世」概念は邪魔になるのである。

 

 しかし、一方で私は「物語」が大好きである。

(以下、こちら↓の正式な記事につづく)

edist.ne.jp

遅咲きでしかありえなかった人 松本清張『ある「小倉日記」伝』

或る「小倉日記」伝 (新潮文庫―傑作短編集)

松本 清張(著)

 

本書は、ミステリー作家として名を馳せる以前の、松本清張の純文学的作品を集めた短篇集である。しかし、単なる流行作家の前史的作品集という言葉だけでは括りきれない、重い内容をもった本である。

松本清張といえば、社会派推理小説の分野に一時代を築き、古代史や昭和史などの歴史ノンフィクション、『日本の黒い霧』に代表される疑獄事件ものなど、様々な分野で多大な業績を残した作家として知られている。その膨大な仕事量から、さぞかし若くしてデビューしたのだろうと思いきや、なんとデビューしたのは四十過ぎである。その上しばらくは純文学系の作家として活動し、『点と線』でブレイクしたのは、なんと四十八歳の時なのである。

さらに驚くべき事実を付け加えるなら、太宰治松本清張は、ともに1909年生まれである。作家としてのキャリアが全く重なっていないので、全然別世代の人のように見えるが、実はこの二人は同い年だったのである。太宰は、松本清張が、まだなんにもしていないうちに、あれだけの業績を残して、自殺して死んでしまい、そしてその後から、松本清張の、あの膨大な仕事が始まったのである。

松本清張が、ここまで遅咲きだった原因の一つは、太宰と真逆で、赤貧洗うがごとき家庭に生まれ育ったせいである。清張自身、竹箒の行商やら、いろんな職業を転々としながら、もの凄く苦労している。学歴は小卒で、歴史や文学に関するあれだけの見識は、全て独学で身につけたものである。

清張の、この初期作品集を読めば、彼こそ、作家になるべくしてなった者、作家にならざるを得なかった「全身小説家」であったことがたちどころに了解されよう。そして、彼が「全身小説家」になるには、四十数年の歳月が必要であったことも。

ところで、清張といえば、なんと言っても社会派推理小説の確立者として知られている。清張が華々しく登場した昭和三十年代以降、日本の推理小説は社会派一色に塗りつぶされ、本格モノの進展を阻んだなどと言われている。確かに清張ミステリーに奇抜なトリックと言えるほどのものは、ほとんどない。

「社会派」推理小説と聞くと、社会悪を告発するミステリー、というイメージを持つ人もいるだろう。「国家や巨大資本の暗部にメスを入れる」というような…。事実、清張自身、流行作家になるにつれ、こうした「告発」調が、少なからず顔を出すようになってくるのだが。

しかし、本書に収録されている短篇を読めば、告発的な口調は希薄である。ここには巨悪は存在しない。ただただ運命の不条理だけが目の前に広がっているばかりである。中島みゆきにならって言えば

  誰のせいでもない雨が降っている/しかたのない雨が降っている

なのである。

表題作「或る『小倉日記』伝」は、清張43歳の芥川賞受賞作。(そう。松本清張直木賞ではなく、芥川賞作家なのである)小倉時代の森鴎外の研究に生涯を捧げた、ある身体障害者の実話を元にした話である。この主人公には、最後にもの悲しい結末が待っているのだが、幕切れの哀切きわまりない情景描写はまことにみごとである。

「青のある断層」は、ふとしたことから画壇の功名争いに奇妙な形で関わることになった男の皮肉な人生。

「石の骨」は、明石人骨の発見を握り潰された実在の人物に取材した話。

「赤いくじ」は、戦争末期、ある貞淑で美しい女性が、在郷軍人の恋のさやあての対象になってしまい、そこへさらなる不運が重なって、とんでもない目に遭ってしまう話である。

ここに収められた話は、いずれも「誰のせいでもない」のに、あるささやかな不運のために、心ならずも陰影に富んだ人生を歩まざるを得なかった人々の物語なのである。

社会を俯瞰的な視点から眺め、問題のポイントはここなのだ、と「告発」できるのはインテリである。ここに登場する人たちは皆、運命の荒波にもまれ、なすすべもなく立ちすくんでいるだけである。

彼らは、決してシュプレヒコールをあげたりはしない。

彼らの声は、「俺は警官を撃ってやったぜ」と、ふてぶてしくつぶやくエリック・クラプトンではなく、「オ、オラ…。け、警官を撃っちまっただよ…」とおろおろしているボブ・マーリーの声である。

ここに収められている話は、どれもこれも恐ろしく暗い。読む者の胸をじりじりと焼き焦がすなにかがある。それと同時に、そこには諦観に似た悲しみが同居している。のちに流行作家になるにつれ、彼自身も失ってしまった止むに止まれぬ呻き声のようなものがナマな形で投げ出されている。

やはりこのような物語は、酸いも甘いも噛み分けた四十過ぎのおっさんにしか書けない世界だろう。

静かで端正な佇まいの下に、もの凄い怨念が渦巻いている。

「怨み節」ではある。しかし決して「告発」ではないのである。

 

しかし、この、どこにも持っていきようのない怨念のようなもの、これなくしては、後の流行作家・松本清張は生まれなかったに違いない。

 

『純粋理性批判』はどの翻訳で読む?

カントの『純粋理性批判』を通読したのはコロナ前の2019年頃だった。読み通すのにだいたい一年ぐらいかかった記憶がある。

若い頃にはカントには興味がわかなかった。

というより、ポストモダン的なものによって乗り越えられた古色蒼然たる近代思想の権化、というようなステロタイプなイメージがあったので、とても積極的に読もうという気持ちにはなれなかったのだ。

ところが、年を経るにつれ、だんだんと「もしかすると、この人はけっこう重要なことを言っているのでは?」と思い当たる節がしばしば出てきたため、とりあえず一回ぐらいは原典を通読してみようという気になった。

ところで様々な翻訳バージョンがある古典的定番の場合、どの訳で読むかはちょっと悩むところだ。

純粋理性批判』ともなると、選択肢がかなり豊富なので途方に暮れるばかりだが、結局、光文社古典新訳文庫で読むことにした。

私が『純粋理性批判』について、光文社古典新訳文庫中山元訳を選んだ理由は、ただ「読みやすそう」という一語に尽きる。

とにかく初学者にも苦痛なく読めることに徹底的に心を砕いた、かゆいところまで手が届く訳文の工夫の数々。

カント用語として定着している基本タームも、場合によっては、あえて定訳を採用せず、独自の訳語を採用。

また、少しでもあいまいな表現のあるところは、[ ]内に補足的な説明を、ためらいなくどんどん書き加え、一点の曇りもない明快な文章に改造している。巻末解説も非常に充実しており、最初の数巻は一冊の半分以上が解説という極端なボリューム。

そして極めつけはこの巻数。普通は上下二巻とか、せいぜい三巻本ぐらいで刊行されるのが通例のこの書物が、なんと全7巻にもなっている。おかげで息切れせず読み続けることができた。

文字組もかなりゆったりしていて、パラグラフごとに表題を付した上で行間を開けているので、パラパラめくった印象は、まるで手軽な新書のよう。他の訳本は、たいていギッチリした文字組で恫喝してくるので「まあ、そのうちいずれ読もうかな」と遠ざかってしまうのだが、これだと「あ、今から読もうかしら」という気分にもなろうというもの。

というわけで、とにかく挫折しないで読んでおきたい初学者には、この版をオススメしたい。

かといって訳文が優れているかどうかというと、素人の私には全くわからない。私淑する永井均先生が中山訳をあまり評価していないらしいのが、ちょっと気になるところだ。(ちなみにTwitterによると永井先生のお勧めは熊野純彦訳、石川文康訳、宇都宮芳明監訳だそうです)

良い訳文(とされているもの)で読むべきか、読みやすさで選ぶべきかは、なかなか難しい問題だが、私の場合、とにかく挫折せずに一回通読しておきたい、という目的が大きかったので、結局読みやすさの方を優先したわけであった。

この選択が正しかったのかどうかはいまだによくわからない。いずれにせよ、別の訳本で、もう一度通読し直す、などということは今後の人生でおそらくないだろうことは確かだ。