マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

ジョギングしている人について僕が語ること

もう長いこと運動はしていない。

十年ぐらい前までは、合気道なんてのを、ちょっとだけやっていたが、それ以後は、まともな運動もせぬまま今にいたっている。

通勤の行き帰りに歩いているのが唯一の運動だ。

歩いていると、よくジョギングしている人とすれ違う。息を切らせながら一心不乱に走っている人を目にするたびに、この人たちの煩悩の深さに思いをはせる。この人がこうした行動を取るにいたるまでには、いろんな心のうごめきがあったのだろう。

 

村上春樹が、走ることについてのナントカいうジョギングについてのエッセイを書いていたが、この人も案外、体型とか気にするんだなと思った。

作家として身を立てていくにあたって、健康が何より大事だから、とかなんとか理由をつけていたが、結局ほんとうの理由は「体型」だろう。

「健康」とか「長寿」を第一の目的としてジョギングをしている人などまずいない、というのが、性根のひねくれた私の見立てである。まずは「痩せたい」とか「腹を引っ込めたい」とかだろう。同時に体も「健康」になるなら一石二鳥、というところだ。

たかが健康のため、と言うには、ジョギングはあまりにも面倒だ。二百年前ぐらいの江戸時代なら、理由もなく一心不乱に走っている人を見かけたら、気がふれたかと思われただろう。目的もなく疾走するなど、生物として不自然極まりない。

この異様な行動に、合理的な意味と説明が与えられ、それがそれなりに浸透したおかげで、今の我々は、街中を人が走り回っている光景に何の違和感も覚えなくなっている。

しかし、必死に走っている人を見ると、煩悩を顔面に貼りつかせているようで、ちょっとだけ痛ましい気持ちになる。

そんなに見た目が気になるのか。

…とか言っている私も、四十を過ぎたあたりから頭髪が薄くなり始めているのに気づいて少なからぬショックを受けたし、いつの頃からか左の頬に大きなシミができてきたのも気になっている。見た目は人並みに気にしているのである。だから他人を嗤うことはできない。

はたして、この煩悩を解除することはできないのか。

おそらく、この煩悩は、人間の持つ煩悩の中でも、最も根源的でファンダメンタルなものなのだろう。そう簡単に克服できるものではないはずだ。いやむしろ克服してしまったら、人間ではなくなってしまうのではないか。どんなに修行を積んだ高徳の僧でも、この煩悩を完全に脱却できたものなど、ほとんどいないのではないか…と想像するのである。

 

思えば私は若い頃からカッコつけることが苦手だった。

十代も半ばを過ぎると、男子たちも色気づく年頃となり、トイレなんかに行くと、鏡の前で、必死に髪の毛をいじくっている同級生たちの姿を目にすることになる。

私は、あれがどうにも気持ちが落ち着かなくて嫌だった。「な~に、カッコつけてんだか」と思った。「ボクは服とか髪型とかには興味がない」と思っていた。

たしかにオシャレに興味がないのは、昔から今にいたるまで一貫している。

しかし、見た目が気にならないわけではなかった。いやむしろ、他人の目に自分がどう映るかは、人並み以上に気になっていた。羞恥心が異様に強く、ガードが堅かった。飲み会その他のカジュアルな場面で、臆面もなく胸襟を開いて、不格好な振る舞いをする知人たちの姿を見て、なぜそんなことができるのか不思議に思った。

一方で、「カッコつけ」というものに対し、妙に嫌悪感を覚えてしまう私は、つねに、身だしなみに無頓着であるかのように振る舞おうとした。しかし「無頓着を装う」ということも「装い」には違いない。むしろ素直な「装い」以上の高次な「装い」とも言える。

 

福田恆存は、Snob(スノッブ)の訳語としての「俗物」について、面白いことを書いていた。彼によるとスノビスト(俗物)と一口に言っても、いろいろなタイプがあるという。福田はそれらを、いちいち解説していく。

いわく、知的俗物、交際俗物、孤独俗物、不器用俗物、個性俗物、少数者俗物、エトセトラ、エトセトラ…。

こう列挙した挙句、ついには反俗的俗物なるものまで登場する。これはここまで列挙してきたあらゆる俗物のタイプから逃れるべく腐心する俗物、つまり俗物中の俗物なのだ。

つまり他人の俗物性に過敏になり、「自分だけはそうなるまい」と意識すればするほど、かえって俗物性は純化し、結晶化される。混じりけのない、完璧な俗物が誕生するのである。

たぶん「見た目を気にする」とか「カッコつけ」とかも同じ構造をしているのだろう。いやそもそもスノビズムというものこそが、他人の目から見た自分を気にすることから発しているのだ。

 

こうして、ジョギングしている人の姿を見るたびに、私はこの人たちの煩悩の深さに思いをはせつつ、いやいや、もっと煩悩が深いのは自分の方だぞ、と思うのである。