マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

中島義道と高村友也

(承前)高村友也『存在消滅』

 

死の問題について集中的に語る人に哲学者の中島義道氏がいる。私は一時期、彼の本もかなり読んでいた。

死の問題というのは上手く言い表すのが難しく、「そりゃ誰だって死ぬのは怖いさ」といったありふれた感想を引き出すのが関の山だ。そんないわくいいがたい問題に対して、中島氏の文章は「巧いこと表現するな」と感心することが度々あった。

しかし、『存在消滅』の高村友也氏は、さらに一枚上手なのではないか、という感触を持った。本当にリアルにこの問題に嵌まり込んでいる人の言葉だった。

 

中島義道氏は、とにかくいろんな事が気にくわない人で、騒音問題に腹を立てたり、日本人の微温的な風習に逐一異議を申し立てるなど、絶えず立腹してはそれを言挙げする人である。どんな些末なことでも、それが不快とあれば、徹底的に腑分けし、剔抉しなければ気に食わない。いい加減に受け流すことだけは許されない。

とにかく忙しいのである。著作も鬼のような勢いでどんどん上梓し、学際的な活動も活発で、社会的な人である。

といっても決して社会に順応しているわけではない。智に働いては角を立て、意地を通して窮屈なのもいとわずドシドシ押し出すことで社会と渡り合っていくスタイルである。

「死が怖くて仕方がない」という言葉に嘘はないだろうが、実はけっこう気が紛れているのではないかという気がするのである。

高村氏にも、こうした対世間的なオブセッション(プラスであれマイナスであれ)があればいいのだが、ないんじゃしょうがない。しかし、世界内のものごとに、ことごとく関心が希薄で、ファンダメンタルな問いのみに、ひたすら直面し続けるというのは、しんどすぎる状況ではある。

もう一点、中島義道氏と高村友也氏とで違うところは、高村氏の当面の目標は「安穏」であり、それが得られるなら、別に死の問題など追究しなくていい、と考えてる点である。

中島義道氏の方は、死の問題こそが、この世で最も重要な課題であり、それを直視し続けることこそが本来的な生き方で、そこから目をそらすことは頽落である、といったような強烈な価値序列意識を持っているようだ。

高村氏は、別に死の問題を考えることが重要だとも立派なことだとも考えていない。考えなくて済むなら、明日からでもやめたいのである。

『存在消滅』全編を通して、死に対する様々な考察を繰り広げているが、こうした知的営為を、立派なこととして称揚しているわけではない。むしろ自身の恥ずかしいところをぶちまけているような雰囲気がある。このあたりも、かなりリアルな感じがしたのであった。

高村友也『存在消滅』

(承前)死の恐怖を解決する方法

 

最近、哲学者の永井均さんから引用ツイートしてもらうということがあった。

https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1723686926098788786

私のツイートのインプレッションは、ふだんはせいぜい百あるかないかといったところなのだが、このツイートは、たちまちのうちに三万件以上にまで膨れ上がった。

ツイッターは、ほんのちょっとしたことで、同じつぶやきが、ものすごく激変する。

 

もともとの私のつぶやきは、永井均氏の勧める『存在消滅』(高村友也)という本についてのものだった。副題にあるとおり「死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」だ。

一読、恐るべき名著であることにすぐ気がついた。

「死」の問題については、若い頃から気にかかっていて、そうしたテーマの本も随分読んできたが、いつもポイントを外されたような隔靴掻痒感ばかり感じさせられてきた。だんだんうんざりしてきて、やがてそうした本は読まなくなってしまった。

そんなところへもってきて、この本は、まさにドンピシャだった。まさに、この問題なのだと思った。

とにかく非常に平易な言葉で書かれているので、描いてある内容自体は、ほぼ誤解の余地なく誰にでも読み取れると思う。

ところが、本当の含意は、ごく一部の特殊な人にしか伝わらない。そういう本だ。

自分は、この本の著者と、ほぼ同じ感覚を共有している、と感じるのだが、一つ大きな違いは、自分は、この問題からの「逃避と忘却」に、ほぼ成功してしまっている、という点だ。

私にとって、死の問題は、一時的な変性意識状態下に立ち現れる現象で、ふだんはそこに意識の焦点を合わせようとしても、うまく像を結ばない。「何か重要な真理に触れていたような気がするのだが、あれはなんだったのか」と、ぼんやりと思い出すだけだ。

ところが、この著者は、ずっとこの観念にとらわれていて、奈落の底に落ちていくような凄まじい恐怖に、恒常的に直面し続けているらしいのだ。

これは本当に恐ろしい状態だと思う。自分は、ほんの短い間だけでも、狂気に陥りそうな危険な状態になった。

しかし喉元過ぎると熱さを忘れるように、完全な「逃避と忘却」に成功してしまうと、今度はちょっと心の余裕が生まれてしまい、「もう一度あの感覚を思い出してみたい」などと贅沢なことを思い始めてしまうのだ。ほんとに奈落の底に落ち込んでしまうと怖いので、穴の縁からちょっとだけ覗いてみたい...というような。

そんな虫のいい要求に、この本はみごとに答えてくれた。読んでてちょっと危険な状態になりかけたが、大丈夫だった。そして、ひさしぶりに思い出した。そうそう、この問題だ、一番重要な問題だ、忘れていたよ。

 

(「中島義道と高村友也」につづく)

死の恐怖を解決する方法

(承前)死の恐怖について

 

死の恐怖を打ち消すルートが一つ考えられる。

独我論の時間バージョン、”独今論”だ。世界は、「今・ここ」しかないわけで、現に今死んでいない上、死は存在しない。

これはただの観念的な屁理屈のようにも聞こえるが、同時にきわめて平凡な日常感覚であるとも言える。現に我々の多くが死を恐怖していないのは、独今論を地で行っているからだろう。

 

全ての人間は執行期日未定の死刑囚だ。それなのに、誰もそのことを問題にしていない。何の罪状もないにもかかわらず最高刑を課されている、というのに…。

私の現在の年齢を考えれば、五十年以内には、刑が執行されるだろう。そうは知っても、今ただちに恐怖感が押し寄せてくることはない。

しかし、もし私が本当に刑法上の死刑囚で、「明日、刑が執行されることが決まりました」と通告されたらどうだろう。とうてい冷静ではいられないのではないか。

独今論の境地を完全に獲得していれば、未来は端的に存在しない。その存在しなさ加減において、明日も五十年後も全く等しいはずだ。

しかし、五十年後なら、さほど怖くもなく、明日死ぬと聞けば動揺する、とはどういうことか。つまり、私は線的に流れる時間、ベルグソンぽく言えば「空間化された時間」を実感しているということだ。この素朴な実感を解除するのは不可能だろう。完全な独今論を獲得するのは不可能だ。なんらかの瞑想などによって、一時的に獲得できたとしても、恒常的に維持することはできない。

しかし、日常の雑事に追われることによって、それは結果的に獲得されている、とも言える。現に、今、死が怖くないのはそのせいだろう。

線的に流れる時間、やがてその先に訪れる死、という図式は、動物にはない人間のみが獲得することのできる、人工的で言語的な世界像だ。

だから、これはなくすことができる。少なくとも忘れることができる。

現にみんな、ふだんはそうして忘れている。これはとても自然なことだ。高村友也氏のように、絶えずこの問題に直面し続けている人の方が特殊な例ということになるだろう。

 

(「高村友也『存在消滅』」につづく)

死の恐怖について

幼少期に、ある日突然、「自分が死ぬ」という事実が、恐るべきリアリティとともに襲いかかり、激しい恐怖とともに泣きわめく、という経験をしている者が多いと聞く。しばしば耳にする話なので、世の中の全員ではないにしろ、それなりの割合で経験者がいるようだ。

 

自分にもあった。かなり強烈なやつが来た。

幼児か、あるいは小学校の低学年の頃だろう。夜中にものすごく怖くなってしまい、泣きわめく自分を、両親は盛んになだめてくれたが、それらの言葉の全てが、むなしく響いたものだった。

実は、私の一人娘にも、それが起こった。

このときも、やはり私は、妻とともに、考えられる限りの慰めの言葉をかけてやったが、語りかけながら「こんな言葉は全然通用しないんだよな」とも思っていた。まさに自分がそうだったのだから。

そもそも、これは他者と共有することのできない絶対的な恐怖なので、外から入ってくる言語による慰めは原理的に成り立たない。子供心にも、そのことが直感的にわかっているので、どうしようもないのだ。そのことが怖くて、だから泣いているのだ。

 

しかし、私も、一人娘も、やがて、日常の雑事に呑み込まれていく中で、この重大な事実を忘れてしまった。

日々を生きていく中で、次々に起こる課題や葛藤、あれやこれやの気がかりなこと、この世界内のゲームには、全力で対処しなくては、やっていけないことがあまりにも多い。死よりも重大な問題など「ない」、とも言えるが、現実的には「ある」。日々、外部世界との間に起こる様々な摩擦や気遣いに対して、「全てはむなしい」などと等閑視することなど、とてもできないのだ。

それやこれやに気を取られているうちに、やがて、死の問題は心の片隅に追いやられることになった。

たまに思い出すことがあっても、「ああ、人は死ぬ、自分も死ぬ、それがこの世界というものだ…」などと、妙に達観した気分で眺めることになる。切迫感が消えたことで、なんだか自分が成長したような気にさえなる。

しかし本当に達観したのか?鋭利な感覚を失っただけなのでは?という気もする。

実際のところ、よくわからない。自分にとって死の恐怖は、通常の生活の中では伏せられている反転した図像とともに浮き上がってくるもので、それはそのまま私の愛読する永井均の哲学に結びついている。

その永井氏が死の問題に対しては妙に冷淡なのだ。むしろ「死の恐怖」と反対側の視点を強調しているように感じられる。(注1)

してみると、死を怖がっているのは何かの誤解なのだろうか...が、いやいや待て待て、そんな簡単な話ではなかったはずだぞ、とも思う。いずれにせよ、なんだかどうも切迫感が欠けている。

このあいだ永井均氏のツイートをきっかけに高村友也『存在消滅』という本を読んで、ひさしぶりに、この感覚が呼び覚まされた。そうだ、あれはかなりヤバイ話だった。気の迷いとかそんなレベルではなかったのである。

 

(「死の恐怖を解決する方法」につづく)

 

(注1)永井均が死の恐怖より希死念慮の方を重んじているように見えるツイートをいくつか抜粋してみた。

 

以前、卒論がある本を読むべきかを決める助けになると言ったが、それで今年読んでしまったのが成瀬雅春『死ぬのを楽しみに生きると人生の質は最高になる』。読む必要のない本だったが、それでもタイトルになっているメッセージはやはり素晴らしい。高橋たか子の「終わるって素晴らしい」と呼応して。2018/3/1

 

情動は、たとえば死の恐怖のようなものでさえ、テクニカルに着脱可能であるようだ。2019/1/1

「本筋から外れたことをお聞きしたいのですが、先生は死を恐れていらっしゃいますか。もしそうでしたら、それはなぜですか。純然たる質問です。」(上のツイートに対する他の人のツイート)

恐れることも恐れないこともできます。恐れる場合は永遠の無に対する恐怖です。

恐れない場合はもちろん、永遠の無に対する恐怖は無くなりますが、それだけでなくもっと積極的に、永遠の無に対する憧れの気持ちが起こることもよくあります。これもまた味わい深いです。2019/1/1

 

私は temporal transgender ですが、死の恐怖と希死念慮にかんしても、どちらも(強く)もつことがあります。どちらも忘れている時も多いですが、両方いっぺんに持つことも現実にあります(したがって両方いっぺんにもつことが可能です)。二つの別人格に分かれて同時に感じているという感じはしますが。

 

話を戻すと、他人を機械のような異様な存在と見るか、逆に自分を幽霊のような異様な存在と見るかの対立は、死を異様と見るか生を異様と見るかの対立と繋がっている。しかし、いずれの場合にも、どちらにも異様さなんて感じない、そういう存在論的感性の欠如した人こそが真の部外者なのではあるが。2023/10/11

自分がいずれ必ず死んで永遠の無がやってくるということを非常に恐れている人と、その真逆に、生きていることのほうを苦痛に感じていていずれ死ねることをむしろ唯一の救いと思っている人とがいる、ということもこのことと関係しているだろう。10/14

私はもちろん、この問題にかんしてもどちらにもトランスできるのだが、そのこととは別に、死後の永遠の無の到来こそを唯一の救いと感じるのは最も純粋で高貴な信仰だとはいえるように思う。極楽浄土に往生する等々の信仰に比べて。それはつまり、それが最も恐ろしいものでもありうるから、なのだな。10/16

この永遠の無を「神」と呼んでもよいと思う(「余神」でもよいが)。無といっても見方を変えれば自分が存在しないだけのことなのでむしろ(世界に無をもたらしていた余計なものが消えて)存在が完全になるともいえるので、これを神と見るのは正統であろう。人格神の持つ不純さも払拭されて。10/17

村上春樹にノーベル賞をそろそろあげてよ。

そういえば、そろそろノーベル文学賞の季節なのでは?と思い、なんとなくネットをチェックしてみたところ、ブックメーカーのオッズは今年も村上春樹がトップ人気ということらしい。

ずいぶん以前から最有力視されつつ選に洩れ続けていたので、そろそろ見放されているのかと思ったら、相変わらず予想値は高いままのようだ。

 

思えば村上春樹は、ずいぶん以前からノーベル文学賞最有力候補と噂されてきた。

しかし、選考経過は半世紀公開されないことになっているので、そもそもホントに最有力なのかどうなのかもわからない。

とはいえ、もしも噂どおり毎年、検討候補に挙がり続けているのだとしたら、よほど抵抗している人でもいるのだろうか。「俺の目の黒いうちは絶対に村上春樹には受賞させん!」とか言って頑張っている人がいるのかも…。

 

などと思っていた矢先、2018年、#MeToo運動がきっかけとなり、スウェーデン・アカデミーがスキャンダルにまみれ、ノーベル文学賞の選考が見送られるという事件が起こった。

この騒動を機に、アカデミー会員が、かなり入れ替わったと思うのだが、これにより村上春樹抵抗勢力も密かに一掃されたのではないか、もう来年あたりあっさり受賞するのではないか、と当時、想像してみたりもした。

しかし、そんなこともないまま、かれこれ数年が経過している。

どうもそんな単純なことではなかったようだ。

 

それにしても村上春樹自身はノーベル賞を欲しいのか。

たぶん毎年、シーズンが近づくたびにお祭り騒ぎを演じるマスコミのありさまを「やれやれ」とか言って眺めているのだろう。

しかし「やれやれ」というポーズを取りつつも、内心はどうなのか。

正味のところ、欲しいのか、欲しくないのか。

これについては本人でない限り、わかりようもなかったわけだが、先述のノーベル文学賞見送り騒ぎによって、その真相が図らずも明るみになることになった。

この年、ノーベル文学賞が発表されないという異例の事態を受けて、市民有志による代替賞「ニュー・アカデミー賞」なるものが発表される運びになったのである。

このとき候補に挙げられた四人の文学者の中に村上春樹の名があった。

村上春樹は、ただちに候補を辞退する声明を出した。

理由は「メディアからの注目を避けて執筆活動に専念したいから」というものだった。

かなり苦しい。

真の理由は想像できる。こんなものを取ってしまったら、本家本元のノーベル賞の方が取れなくなってしまうではないか。

他の候補者三名は、ノーベル文学賞の可能性からは遠い人たちだ(あくまで世間の噂レベルでだが…)。

対して村上春樹は毎年ブックメーカーのトップに君臨する最有力候補。他の三人とは訳が違うのだ。

あいつらは、もともとノーベル賞の目はないのだから「ニュー・アカデミー賞」とかいうやつで手を打つのも悪い話じゃないだろう。しかしこっちは失うものが大きすぎる!

これはもう災難としか言いようがないではないか。なんでこんなリストに自分を入れたんだよ。少しは配慮ってものはないのかよ。

…というようなことを村上春樹が思っていたかどうかは知らないが、一連の候補辞退の動きを見ると、そう思っていたように映ってしまうのも無理はない。

 

というわけで、村上春樹は実はノーベル賞を欲しかった、ということが白日の下に晒されてしまったのだ。

かわいそうだから、もうそろそろ村上春樹ノーベル賞をあげてよ。