マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

死の恐怖について

幼少期に、ある日突然、「自分が死ぬ」という事実が、恐るべきリアリティとともに襲いかかり、激しい恐怖とともに泣きわめく、という経験をしている者が多いと聞く。しばしば耳にする話なので、世の中の全員ではないにしろ、それなりの割合で経験者がいるようだ。

 

自分にもあった。かなり強烈なやつが来た。

幼児か、あるいは小学校の低学年の頃だろう。夜中にものすごく怖くなってしまい、泣きわめく自分を、両親は盛んになだめてくれたが、それらの言葉の全てが、むなしく響いたものだった。

実は、私の一人娘にも、それが起こった。

このときも、やはり私は、妻とともに、考えられる限りの慰めの言葉をかけてやったが、語りかけながら「こんな言葉は全然通用しないんだよな」とも思っていた。まさに自分がそうだったのだから。

そもそも、これは他者と共有することのできない絶対的な恐怖なので、外から入ってくる言語による慰めは原理的に成り立たない。子供心にも、そのことが直感的にわかっているので、どうしようもないのだ。そのことが怖くて、だから泣いているのだ。

 

しかし、私も、一人娘も、やがて、日常の雑事に呑み込まれていく中で、この重大な事実を忘れてしまった。

日々を生きていく中で、次々に起こる課題や葛藤、あれやこれやの気がかりなこと、この世界内のゲームには、全力で対処しなくては、やっていけないことがあまりにも多い。死よりも重大な問題など「ない」、とも言えるが、現実的には「ある」。日々、外部世界との間に起こる様々な摩擦や気遣いに対して、「全てはむなしい」などと等閑視することなど、とてもできないのだ。

それやこれやに気を取られているうちに、やがて、死の問題は心の片隅に追いやられることになった。

たまに思い出すことがあっても、「ああ、人は死ぬ、自分も死ぬ、それがこの世界というものだ…」などと、妙に達観した気分で眺めることになる。切迫感が消えたことで、なんだか自分が成長したような気にさえなる。

しかし本当に達観したのか?鋭利な感覚を失っただけなのでは?という気もする。

実際のところ、よくわからない。自分にとって死の恐怖は、通常の生活の中では伏せられている反転した図像とともに浮き上がってくるもので、それはそのまま私の愛読する永井均の哲学に結びついている。

その永井氏が死の問題に対しては妙に冷淡なのだ。むしろ「死の恐怖」と反対側の視点を強調しているように感じられる。(注1)

してみると、死を怖がっているのは何かの誤解なのだろうか...が、いやいや待て待て、そんな簡単な話ではなかったはずだぞ、とも思う。いずれにせよ、なんだかどうも切迫感が欠けている。

このあいだ永井均氏のツイートをきっかけに高村友也『存在消滅』という本を読んで、ひさしぶりに、この感覚が呼び覚まされた。そうだ、あれはかなりヤバイ話だった。気の迷いとかそんなレベルではなかったのである。

 

(「死の恐怖を解決する方法」につづく)

 

(注1)永井均が死の恐怖より希死念慮の方を重んじているように見えるツイートをいくつか抜粋してみた。

 

以前、卒論がある本を読むべきかを決める助けになると言ったが、それで今年読んでしまったのが成瀬雅春『死ぬのを楽しみに生きると人生の質は最高になる』。読む必要のない本だったが、それでもタイトルになっているメッセージはやはり素晴らしい。高橋たか子の「終わるって素晴らしい」と呼応して。2018/3/1

 

情動は、たとえば死の恐怖のようなものでさえ、テクニカルに着脱可能であるようだ。2019/1/1

「本筋から外れたことをお聞きしたいのですが、先生は死を恐れていらっしゃいますか。もしそうでしたら、それはなぜですか。純然たる質問です。」(上のツイートに対する他の人のツイート)

恐れることも恐れないこともできます。恐れる場合は永遠の無に対する恐怖です。

恐れない場合はもちろん、永遠の無に対する恐怖は無くなりますが、それだけでなくもっと積極的に、永遠の無に対する憧れの気持ちが起こることもよくあります。これもまた味わい深いです。2019/1/1

 

私は temporal transgender ですが、死の恐怖と希死念慮にかんしても、どちらも(強く)もつことがあります。どちらも忘れている時も多いですが、両方いっぺんに持つことも現実にあります(したがって両方いっぺんにもつことが可能です)。二つの別人格に分かれて同時に感じているという感じはしますが。

 

話を戻すと、他人を機械のような異様な存在と見るか、逆に自分を幽霊のような異様な存在と見るかの対立は、死を異様と見るか生を異様と見るかの対立と繋がっている。しかし、いずれの場合にも、どちらにも異様さなんて感じない、そういう存在論的感性の欠如した人こそが真の部外者なのではあるが。2023/10/11

自分がいずれ必ず死んで永遠の無がやってくるということを非常に恐れている人と、その真逆に、生きていることのほうを苦痛に感じていていずれ死ねることをむしろ唯一の救いと思っている人とがいる、ということもこのことと関係しているだろう。10/14

私はもちろん、この問題にかんしてもどちらにもトランスできるのだが、そのこととは別に、死後の永遠の無の到来こそを唯一の救いと感じるのは最も純粋で高貴な信仰だとはいえるように思う。極楽浄土に往生する等々の信仰に比べて。それはつまり、それが最も恐ろしいものでもありうるから、なのだな。10/16

この永遠の無を「神」と呼んでもよいと思う(「余神」でもよいが)。無といっても見方を変えれば自分が存在しないだけのことなのでむしろ(世界に無をもたらしていた余計なものが消えて)存在が完全になるともいえるので、これを神と見るのは正統であろう。人格神の持つ不純さも払拭されて。10/17