遊刊エディストのリレーコラムでは、毎回、その月のテーマというのが決まっていて、今月のテーマは「彼岸」だった。
私は「あの世なんて(たぶん)ない」と思っているので、そのことを率直に書いた。
しかし、さすがにお題に、まっこうからケンカを売っているようなので、一応の申し訳として、後半で、お題の趣旨に沿った文章を無理矢理つけくわえた。
はたして編集部の方から物言いがついた。
後半部分は興味深く読ませてもらったが、前半は余計な感じがするので、「あの世はない」ウンヌンの話は冒頭四、五行ぐらいにまとめていただき、後半部分だけの内容で再構成してもらえないか、とのこと。
編集部としては妥当なご指摘ではある。だいたい、苦し紛れの付け足しなどしてしまったせいで、文章が全体にゴタゴタして間延びしてしまっている。
前段をばっさりカットした方が、まとまりがよくなるのは間違いない。
しかし、書いている当方の身にしてみれば、本丸は前半部分で、後半は付け足しなのだ。
まあ、そんなことを言ってもしかたがない。大家さんの言うことには素直に従わないと掲載してもらえない。
というわけで、ばっさりカットした前半の文章を以下に掲載することで、自分への慰めとしたい。
もっとも、遊刊エディストの記事は、大家さんの力もあって、たくさんの読者がいるが、こちらのブログは1記事あたりの平均閲覧数が数人、という寂しいサイトなので、あんまり慰めにもならないのであるが・・・。
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以下、没原稿
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今月のお題は「彼岸」である。
うっ…「彼岸」なのか…。
ハッキリ言って苦手分野である。このテーマについては他のコラムニストの方々が、もっとイイ感じの、味わい深い話をしてくれると思うので、この際、私は無粋な話をさせていただく。
「死ねば死にきり。自然は水際立っている。」
と、高村光太郎は言った。私の考えも同じだ。
「死後の世界はあるのかないのか」といったような話は、ちょうどカントのアンチノミーのような、原理的に答えの出せない問題で、「こうだ」ということは絶対に言えない。
絶対に言えないのではあるが、限りなく確信に近い形で、「あるわけがない」と思っている。私のこの確信を崩すのは、ほぼ不可能ではないか、というほど根強いものだ。
なんでそう思うのかと言われると、説明が面倒くさくなるが、くだくだしい説明をすっ飛ばして言うと、「様々な状況から総合して、そうとしか思えない」ということである。
「世界がある」ということそのものに対する驚きは、人一倍あるものの、世界の仕組みそのものに関しては、私は極めて常識的な科学的合理主義者であり、それで済むと思っている。
とはいえ、その科学的世界像といえど、量子的、宇宙論的レベルになると訳のわからないことも多く、魔術的な怪しい香りを放ちはじめる。
私たちの住むこの物理的宇宙は思いのほか謎に満ちていて、ことによると「魂の不滅」だの「あの世」だのといった概念を招き寄せかねないほどの勢いである。
しかし、やっぱり…、ないだろうなあ~。
…というと、なんだか平板で味気ない世界観の中で生きているように思われるかもしれないが、むしろ私は「死ねば死にきり」の世界観の方が、よほど玄妙で不条理さに満ち満ちており、味わい深いものだと思っている。
先日、『情報の歴史21』の講座にも登壇された鈴木健氏は、ひところ「戦慄系」なるものを唱えておられた。いわば「萌え系」の対抗概念なのだが、戦慄系の例として、カントールの対角線論法、無限論、量子力学の不確定性、ウィトゲンシュタインの他我論などが列挙されていたと思う。
こういうキーワードはなんとなくわかる気がする(ちゃんとはわかっていないが…)。私はあきらかに戦慄系である。
こういった戦慄的な事柄について考えているときに、 “彼岸”なんて生ぬるいものを出してこられると、銭湯で熱い湯を楽しんでいるところに水を足されるようで「うめるんじゃねえ!!バカヤロウ!!」と一喝する江戸っ子ジジイのような気分になるのである。
彼岸は、やっぱり人間くさすぎてダメだ。
人知を超えた何か、人間の悟性の範疇を超えたもの、といったことに思いをはせるとき、どうも「あの世」概念は邪魔になるのである。
しかし、一方で私は「物語」が大好きである。
(以下、こちら↓の正式な記事につづく)