マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

死の恐怖を解決する方法

(承前)死の恐怖について

 

死の恐怖を打ち消すルートが一つ考えられる。

独我論の時間バージョン、”独今論”だ。世界は、「今・ここ」しかないわけで、現に今死んでいない上、死は存在しない。

これはただの観念的な屁理屈のようにも聞こえるが、同時にきわめて平凡な日常感覚であるとも言える。現に我々の多くが死を恐怖していないのは、独今論を地で行っているからだろう。

 

全ての人間は執行期日未定の死刑囚だ。それなのに、誰もそのことを問題にしていない。何の罪状もないにもかかわらず最高刑を課されている、というのに…。

私の現在の年齢を考えれば、五十年以内には、刑が執行されるだろう。そうは知っても、今ただちに恐怖感が押し寄せてくることはない。

しかし、もし私が本当に刑法上の死刑囚で、「明日、刑が執行されることが決まりました」と通告されたらどうだろう。とうてい冷静ではいられないのではないか。

独今論の境地を完全に獲得していれば、未来は端的に存在しない。その存在しなさ加減において、明日も五十年後も全く等しいはずだ。

しかし、五十年後なら、さほど怖くもなく、明日死ぬと聞けば動揺する、とはどういうことか。つまり、私は線的に流れる時間、ベルグソンぽく言えば「空間化された時間」を実感しているということだ。この素朴な実感を解除するのは不可能だろう。完全な独今論を獲得するのは不可能だ。なんらかの瞑想などによって、一時的に獲得できたとしても、恒常的に維持することはできない。

しかし、日常の雑事に追われることによって、それは結果的に獲得されている、とも言える。現に、今、死が怖くないのはそのせいだろう。

線的に流れる時間、やがてその先に訪れる死、という図式は、動物にはない人間のみが獲得することのできる、人工的で言語的な世界像だ。

だから、これはなくすことができる。少なくとも忘れることができる。

現にみんな、ふだんはそうして忘れている。これはとても自然なことだ。高村友也氏のように、絶えずこの問題に直面し続けている人の方が特殊な例ということになるだろう。

 

(「高村友也『存在消滅』」につづく)