哲学には大きく分けてタテ問題とヨコ問題というのがある、というのが永井均氏の説である。
…というように二種類に分けて言うと、あたかもこの両者が拮抗しているような印象を覚えるが、実は哲学史上、ほぼ全員がタテ問題を論じており、ヨコ問題に自覚的なのはウィトゲンシュタインと永井均ぐらいしかいないのである。
デカルトもカントもフッサールも、みな最初はヨコ問題に気がついているようなのだが、議論を始めるや否や、あっという間にヨコのものをタテにしてしまうらしい。
なぜそうなるかというと、ヨコ問題は、ある意味で言語に乗せることが不可能な側面を持っているからだ。
だから皆、本当はそれを知っているのに、それがわからない、ということが起こる。
「知っているのにわからない」と言うと変な感じがするが、知らないと、そもそもこの世界を構成することはできないので、必ず知っているはずなのだ(永井氏の言い方で言うと「平板な世界像しか持っていなければ、その平板な世界すら創れなくなってしまう)。しかし、そのことは言えないようになっているので、「わからない」ということが起こってしまう。
普通に日常生活を送っていると、自然にヨコ問題というのは見えにくくなってしまう。だから自分の場合は定期的に思い出そうと、あえて努めている(別にそうしなくてはならない理由はないのだが…)。視力回復のために毎日3Dステレオグラムを眺めるように、ピントを調節している。
普段はザラザラの模様しか見えないようなピントになっているのを、ときどき立体が見えるピントの方に調整してやるのだ。そのたびに「あっ、そういえばそうだった。忘れてたけど…」と思うのだった。
世の中には、3Dステレオグラムで立体が見える人と、ザラザラの模様にしか見えない人がいる。さらに言うと、頑張って訓練すれば見えるようになる人と、どう転んでも見えない人がいる。
そしてそこに「裸の王様」みたいな問題が起こる。
「見えてる」と言う人がおり、ホントは見えていないのに「見えてる」と言う人がいる。そしてあるとき子どもがフラッと現れて「王様は裸だ」と言う。すると今まで見えていなかった人たちが突然勢いづいて、「そうそう、そうなんだよ!」と大合唱する。
しかし、ホントに王様は服を着ていたのだ!
ただ、繰り返しになるが、ホントはみんな、それが見えているはずだ。見えているのにそれに気がついていない、ということなのだ。あまりにも至近距離にあり過ぎて、ピントが合わせられないのだ。
以上、「ヨコ問題」を知らないと、そもそも何の話をしているのかわからなかったかもしれないが、雰囲気だけでもわかっていただければ幸いだ。