マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

「マルコ」について

ブログに「マルコによる新明解独語辞典」というタイトルをつけた。

「新明解~」というのは、ご存じの通り独創的な編集で知られる国語辞典にちなんだものだが、頭についている「マルコ」というのは、私のクリスチャンネームだ。

といっても「幼児洗礼」といって、赤ん坊の時に親の意志でつけられたものだ。私の実家は、たまたまキリスト教の家庭だった。

幼児洗礼を受けた者が、ある程度の年齢に達して、あらためて自分の意志で信仰を固めたいと望んだときは、「堅信式」というのを受ける。

私は、それは受けていない。信仰心が育たなかったのだ。

不信心な息子に、親は、それを強制することはなかった。長男なので本来なら家の宗派を継ぐべきなのだが、それはどうやら妹夫婦の方が引き受けてくれそうな気配である。

 

子供の頃は、ごく素朴に信心のようなものは持っていたように思う。

神様というのはいて、イエス様は人の罪を贖うために十字架にかかったのだと素直に思っていた。

それがいつの頃からか信じられなくなった。

なにか特別なことがあったわけではない。十代に入る頃から、ごく自然に科学的合理的思考をするようになり、霊魂や彼岸や奇蹟の存在を認めるのは、やはり、いろいろと無理があるように思えてきた。

この感覚は今に至るまで変わらない。おそらく死ぬまで変わらないだろう。年老いて死期が近づいてくると突然心境の変化などが訪れたりするのだろうか…。いや、やはりないだろうな。それぐらい根深い感覚だ。

エスの起こした数々の奇蹟や、十字架の死と復活などは信じないが、キリスト者である、ということは考えられるだろうか。

まあギリギリあり得るかもしれない(田川建三氏などはそれにあたるだろうか)。

しかし神の存在やイエスの聖性まで否定してなおキリスト者であり得るだろうか。単に立派なことを言った道学者としてイエスを尊敬する(たしかに福音書を読むと、滋味にあふれた名言の宝庫で、イエスというのはひとかどの人物であったのは間違いない)、というのは信仰とは言えないだろう。そう考えると、自分がこの先、キリスト教に改心する可能性は、ほぼゼロだと思う。

 

たしかに科学の世界にもわけのわからないことはある。量子論とか宇宙の成り立ちとかの話を聞くと、この物理世界もキワキワのところまで突き詰めると、なにか得体のしれないことになっているようで、異様の念に駆られることはある。この世ならざる超越的なものが見えるような気さえする。

しかし自分の場合、そこから宗教的な方向へ改心することも考えにくい。これらは最終的に科学の領域でかたのつく問題だろうと思う。

 

しかし実は、科学によっては決して解明できない領域というものはある。

それは哲学で扱われる問題、たとえば永井均の言うヨコ問題のようなことだ。

これこそ超絶的にわけのわからない謎中の謎であり、このことを前にすると、霊魂だの彼岸だのの問題は色あせて見える。

ヨコ問題に答えを出すことはできるのだろうか。そもそも答えってなんだ。それがわからない。

出来るのは問題の構造をできるだけ明快にしていく作業だけだ。永井均のようなナチュラル・ボーン哲学者は、この作業を果てしなくやり続けて倦むところがないようだが、私などは、あるところまで行くと「もう、そこらへんのゴチャゴチャした話はまあいいかな」となってしまう。もうちょっとフワッとしたレベルで「不思議だなあ」と感慨にふけっているのがいいのだ。

科学の領域で扱われるキワキワの問題、哲学が問題にする深くて精妙な議論、どちらも興味深くはあるが、本気でそこに入っていく気力も能力もない。ずっと手前のあたりから眺めて「不思議だなあ」と言っているのが関の山なのである。

世界はわからないことだらけだ。そして、これまでの人類すべてがそうであったように、私もまた、何もわからないまま死んでいくのだな。