マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

おひとりさま

(承前)「命名というマジック」

 

かつての自分は、世界に類例のない固有の問題を抱えていた。全くどう表現していいのか分からず、もどかしかった。しかし、それは文学や哲学が取り上げるような高級な悩みに比べると、なんとも「絵にならない」もので、幼稚なもののように思えた。

 

当時人気のあった竹田青嗣小阪修平小浜逸郎などの人生論風哲学入門などを読むと、そこには友情や恋愛の問題が論じられていた。

傷つくことを恐れず他者と向き合っていくこと、特に恋愛を通じて人は鍛えられていくのだと説かれていた。全身全霊をもって恋愛の場に飛び込んでいき、ときに失恋の痛みを知ることも必要だとされた。

 

私もまた、恋愛なるものと向き合わなくてはならないのか。

恋人を作るのは無理にしても、何か手痛い失恋を経験するなどして、人生の機微を学ばなくてはならないのか。

しかし、女友達どころか女の知り合いもいない今の自分には失恋することすらできない。

書物に書かれる恋愛をめぐる高尚な議論と、今の自分がいる場所との間には、あまりにも大きな隔たりがあり、もう少し手前の議論をしてもらわないと困るように思えた。

 

1994年に京都の現代風俗研究会から刊行された『もてへん男』という論文集を書店で見かけたときには、非常なインパクトを受けた。画期的な研究だと思った。こういうことをまともに論じる人はいなかったのだ。

その後、1999年、小谷野敦の『もてない男』がベストセラーになり、この問題が顕在化された。

つまり、この世には「もてない男」という一群のクラスターがあり、そこには独自の問題系があることがはっきり示されたのだ。やがて、この問題はさらに一般化されて、「非モテ」なる言葉まで生まれた(しかし、この時点でも「もてない女」は、まだその存在がないことにされていた。男性に縁のない女性たちの存在がメディアの俎上に載せられるようになるのは、もう少し後のことになる)。

 

リア充」もそうだった。この言葉の登場は、かえって「リア充」でない者たちを照らし出すことになった。世の中には「リア充」でない者が、少なからずいるのだ、ということが明るみにされてしまった。

自分が若い頃はそうではなかった。自分以外の人間が全員、今でいう「リア充」に見え、自分だけが異分子のような気がしていた。様々なメディアの言説も、基本的に世の中の人が皆リア充である、ということを当然の前提とし、その上でどう振る舞えばいいかが議論されていた。

リア充」という言葉が生まれて初めて、そうじゃない人がいるらしいことがわかってきたのである。

 

「ひとり」というワードが浮上してきたのも近年の傾向で、私が大学時代を過ごしたバブル末期の頃は、ひとりでいることは、あってはならない…、というよりも、ないことになっていた。そもそも一人で行動している者など自分の周りには全く見当たらなかった。大月隆寛が「つがわずんば人にあらず」と揶揄していたが、当時の都会は、ホントにそうだった。

孤独好きなくせに、妙に物見高い私は、面白げなイベントなどがあるといそいそと出かけた。そして、カップルばかりの行列に、一人、小さくなって並んでいた。

また、甘いものに眼がない私は、男一人で行くのはそぐわないような小洒落たカフェに行ってはアベックだらけの店内で、一人、スイーツを食した。絶叫マシンなども大好きなので、遊園地にも一人で行った。今では一人客用の優遇ゲートなどもあるが、昔は一人で遊園地に行くのは変だった(今もか?)

ひとりスキーもよくした。バブル当時は、若い男女の群れ集うオシャレな娯楽の王道だったスキーだが、そういうノリは苦手でもスキー自体は面白そうなので一人で行った。

90年代いっぱいまでは、一人で行動するのは、なにかと居心地の悪い局面が多かったが、そこは気持ちをオフにして気にしないようにしていた。

 

それがいつの間にか、ひとりというのは、けっこうアリになってきた。

「おひとりさま」という言葉が現れ、「ひとり焼肉」「ひとりカラオケ」などという言葉も生まれた。「ソロキャンプ」というのもあるらしい。「ぼっち飯」というのはネガティブなニュアンスの方が大きいようだが、それでも、そういう言葉があるだけで救いがある。「今日はぼっち飯だった(涙)」などと自虐的に表現することができるからだ。

しかし、そんな言葉のない時代、上のような行動をする自分に、なにかどうにも言いようのないもどかしさを感じた。この自分につきまとう独特の気持ち悪さを、いったいなんと言えばいいのだろう。

今なら、それを簡単に「イタイやつ」と表現することができる。

「痛々しい」をつづめた、この言葉が出てきたとき、私は軽い感動を覚えた。今までなんと言えばいいのかわからない、もやもやしたものに見事に当てはまる言葉が見つかったからだ。そうか、私は「イタイやつ」だったのだ。

私は、若い頃より、なんとも言いようのないコミュニケーションの不全に悩まされ続けてきた。しかし今では、私のような人間は、「ちょっとコミュ障気味のイタイやつ」と、簡単に言えてしまえることになった。多数派ではないものの、決して珍しくはない一類型に収まってしまったのである。

 

私は自分をダメ人間だと思っていた。そして、そうとう深く落ち込んでいた。しかし、落ち込みつつ、うぬぼれてもいた。これほど特殊で変わったタイプのダメ人間もいないだろうと…。

しかし、ダメさにおいても、自分はそれほど大したことはないことがわかってきた。

いや、だいぶ気持ちが楽になったのは確かである。しかし、なんとなく釈然としないのである。

 

「就職活動」につづく。