マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

社会に出る

(承前)就職活動

 

お粗末極まりない就職活動の末ではあったが、なんとか内定を獲得することができた。私は「引きこもり」(当時、その言葉はまだなかったが…)になることもなく、四月から社会人としてスタートすることになったのである。

当然、私は、怯えに怯えていた。どんな恐ろしい世界が待っているのだろうと思った。

「しかし、案ずるよりも産むが易しともいうし、命まで取られるわけではないし」と、必死で自分をなだめた。

 

はたして四月から社会に出てみると、そこには恐ろしい世界が待っていた。

「杞憂」どころか、わたしが想像していた最悪の事態を遙かに上回る悪夢が待っていたのである。

その後の人生で、何度も味わうことになる、パワハラ上司による常軌を逸した凄まじい攻撃の、これが初めての経験であった。

今なら「パワハラ」なる便利な用語があるが、当時はそんな言葉もなく、今自分の身に起こっている災厄が、全く名状しがたい異様なものに思われた。

これは何なのかと思った。自分のどこかに問題があるのか。やっぱり自分だけが「特別に」おかしいのか。精神的に病んでいるのか。上司からの波状攻撃を受け続けるうち、自分はいつかぶち切れて暴れ出すのではないかと思われた。何度もそのシチュエーションを空想した。

 

私には、どうも独特の攻撃誘発フェロモンがあるらしく、二十数年前に就職してから今日に至るまでの宮仕えの間に、この手のパワハラ上司には何度も出くわしている。

そのたびに私は深甚なダメージを受け、パニックに陥った。何度も体験しているのに慣れることは全くなかった。

それでも少しは変化があった。まず早い段階で、相談センターなどの専門機関に駆け込むようになった。心療内科も受診した。一度だけ職場に診断書を出して、病気療養という形で休職したこともある。

 

しかし、初めてだったこのときは、そういう知恵など、とうてい回るわけもなかった。そもそも「”精神病院”に行くなんて、とんでもない」と思っていた。

職場では、とにかく何を言われても絶対に逆らわないことにしていた。自分は世間知らずの社会人一年生だ。さかしらに、生意気なことを言ってはいけない

とにかく周りの人が言っていることが絶対に正しく、それに違和感を覚える自分の方が間違っているのだ。これを大原則として行動しようと決めていた。

しかし、これは今思うと非常に間違った考えだった。

「こいつは与しやすいヤツだ」と見なすと、人はいくらでも居丈高になれるし、そもそも私はむっつりと暗い顔をして、ただでさえムカつくキャラなのだ。攻撃されない方が不思議だった。

 

あるとき、東京本社の人事部から呼出しを受けた。上司から人事部の方へ、今度の新卒はポンコツ過ぎて滅茶苦茶だという業務報告が上がっていたようだ。一度、本人からも話を聞きたいという。

私は配属された地方支社から、久しぶりに上京して本社におもむいた。このときも、私はいっさいの不平は言うまいと決めた。人事部の者から、「上司からの指導の言葉に、それはおかしいと思うことはなかったか」と水を向けられても、いえ、私の方に理解が足りなく、ご迷惑をおかけし、申し訳なく思っていますと答えた。とにかく悪いのは全て私でございます、の一点張りだ。

 

この方針は意外と功を奏した。

「なんか我々が想像していたのと、だいぶ違うなあ」と人事部の人は言った。

「話を聞く限り、君は非常にしっかりしているし、仕事に対しても謙虚で前向きじゃないか」と言う。

「どうも、あの報告にはおかしなところがあった。あの報告の通りだとしたら、君を採用することに決めた我々人事部の判断力を全面的に否定されたようなものだしね」と言い、

「よし、わかりました。どうも君と彼とは根本的に合わないのだろう。これはもう君を異動させるしかないね」と申し出てくれた。

 

これは私にとっては想像をはるかに超える良い展開だった。

「今すぐにというわけにはいかない。とりあえず、あと一ヶ月、今の職場で頑張りなさい。7月末に人事異動の辞令を出すことにしよう」

さらに続けてこうも言った。

「そもそも、君は営業には向いていないんじゃないか。最初からそんな感じはしていたんだが、君が強く希望していたので営業に配属したのだけどね」

確かに私はあきらかに営業向きでないのはわかっていた。

しかし、内にこもりがちで、他者と向き合おうとしない自分を鍛え直すためにも、あえて「外部」とナマな形でぶつかり合う「営業」という仕事に飛び込んでいくべきだ、などと無茶なことを考えていたのだ。

しかし、今となってはそんことは言っていられない。

「君はやっぱり経理などの事務職の方が向いてるんじゃないかね。本社勤務がいいのでは?」

東京に帰れるのか。願ってもないことだった。

しかし、この願ってもないチャンスを私は自らフイにすることになった。

人事異動の内示が予告されていた日まで2週間を切ったある日、私はとうとう「暴れて」しまったのである。

 

自分がいつか、キレて暴れるんじゃないか、ということは、それまで何度も繰り返し空想していたことだった。しかし、いざ本当に暴れてみると、それは想像とは、あまりにもかけ離れたことだった。

私の想像の中では、部屋の中は徹底的に破壊し尽くされ、廃墟のようになっているはずだった。

ところが、実際には、そこらへんが、ちょっと散らかっただけだった。

 

しかも、暴れるタイミングを完全に間違えていた。

それまでも、もうブチキレ寸前のような局面は何度もあったのである。あまりの暴虐な攻撃ぶりに、過呼吸を起こして倒れてしまったこともあった。もう誰の目から見ても、「これは暴れるのは無理もない」という場面は、いくらもあったのだ。

しかし、私はなぜか、まるで説明のつかないような些細な攻撃に対してブチキレてしまったのである。

なぜ、ここで?

自分でも、さっぱりわからなかった。

とにかく蚊とんぼのような暴れっぷりとはいえ、収拾がつかなくなってしまった私は、わあ、と訳のわからない叫びを発して外に飛び出した。

人通りの多い街中を、うわあ、とか、ひぃとか言いながら、あてもなく走り続けた。

(私は今、半狂乱になっているのだ。わあわあ泣き叫びながら走る自分を道行く人は怪訝そうに見ているが、そんなことは気にならないのだ。目の前の信号が点滅して、やがて赤になりそうだが、それにも気がつかないのだ。そして道路に飛び出して交通事故に遭うのだ。)

よし、交通事故を起こしてやるぞと思いながら赤信号の交差点に向かって突進した。

しかし、猛烈な勢いでビュンビュン行き交うクルマの群れを前にした私の足はすくみ上がった。私の足の速さは次第に鈍くなり、横断歩道の前で行儀よくピタリと止まった。

私は「半狂乱」になどなっていなかった。

 

この騒ぎは、ただちに本社に通報され、数日後、非公式に退社勧告が出された。私は自主退職という名目で会社をクビになった。

 

「90年代の宴会」につづく。