マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

命名というマジック

(承前)「全力で空気を読む」

 

命名というマジック

 

十年ほど前に「マウンティング」なる言葉を初めて目にしたとき、「言い得て妙!」と思った。

私は、この現象を学生時代からしばしば目にしていた。

俺はコレを知ってるとか、これを読んだとか言い、いや、それなら俺も知ってるし、それを言うならむしろコレだろみたいな話をしているのを横で見ていて、ああ、例の「アレ」が始まったなと思った。

しかし「アレ」には名前がなかった。

あるとき、今村仁司『近代の労働観』という本を読んでいたら、そのことが書かれていた。今村氏は、それを「敬意の政治」と呼んでいた。なるほどなと思ったが、ネーミングがイマイチ硬すぎて、うまくないなと思った。

その後、「マウンティング」という言葉を聞いて「あっ、これだ」と思った。「バシッと決まったな」と思った。

 

この世に、はっきり存在しているのに名前のないものは、いろいろある。そこにあるとき名前がつくと、「おおっ」という感動がある。

「キラキラネーム」がそうだった。

子どもに妙な名前をつける傾向が目につくようになり、なんだかおかしなことになっているなと思っていたが、そのことをどう言えばいいのかわからなかった。呉智英が「暴走万葉仮名」という名称を唱えていたが浸透しなかった。「キラキラネーム」で、バシッと決まった。

 

そうした、「バシッと決まったネーミング」の王者は、なんといっても「おたく」だろう。

この言葉を初めて目にしたときのことは覚えている。1986年、『本とつきあう本』という文庫本に載っていた中島梓のエッセイだった(一般には1989年の幼女連続殺人事件を期に世間に浸透した言葉である)。かなり身に覚えのある内容で、私は内心ギクリとした。当時はかなりネガティブなニュアンスで使われていたので、「自分は違う」と言いたかったところだが、全く無縁とも言えないぞ、というのはわかっていた。

 

もう一つ、自分にとって衝撃だったのは「引きこもり」という言葉だった。

私のような、外の世界に出ることを異様に恐れる人間のことを、いったいどう言えばいいのか……。ネットもない時代だったので情報も少なく、自分のようなタイプの人間は、まるで見たことがなかった。自分は、とても異常な人間のように思えた。

当時、それに類する用語をあえて探すとすれば「モラトリアム人間」だった。小此木啓吾の本で有名になった言葉で、社会に出ることをできるだけ引き延ばそうとする若者たちのことを指していた。

私は「モラトリアム人間」なのだと思った。そして「モラトリアム」問題についての本などを読みあさった。しかし、なんとなくしっくり来ない感じはあった。そこへ「引きこもり」なる用語がやってきた。

これか、と思った。

 

私は、それまで、カタギの世界からドロップアウトしたら、ホームレスになるしかないと思っていた。ホームレスについてのルポルタージュなどを読みあさり、自分には無理と思った。

ところが、カタギとホームレスの間には「引きこもり」なる職業があり、親の資産などによって生活を営むこの職務に就く者は全国に数万人規模でいるという。

「聞いてねーぞ」と思った。そんな選択肢があるとは知らなかった。

しかし、自分は「引きこもり」にこそならなかったが、この語は自分を表すのにぴったりフィットするような気がした。「モラトリアム人間」などより、はるかにしっくりする。

そうか、自分は「引きこもり」人間だったのだ。実際に、引きこもりにこそならなかったものの、自分は間違いなく、この眷属の一員だった。

 

90年代後半からゼロ年代にかけて、新しい言葉や概念が次々と生み出された。それらのうちの少なからぬものは、自分にとってわりと身に覚えのあるものだった。時代は、ますます自分寄りになってきているように思われた。

 

「おひとりさま」につづく。