(承前)「よくわかるよ」
私はなぜ、こんなにしゃべれないのか。
人としゃべれなくなったのは、中学2年の春に関西に転校して以来のことなのだが、それ以前からその兆候はあった。
小学校も高学年から中学となると、男子は皆、自分のことを「俺」と呼び、他人を呼び捨てにするようになる。
これが私にはどうしても出来なかった。一人称を省略することは日本語の構造上、比較的容易なのだが、他人の名前を会話の中にいっさい出さない、というのは至難の業だ。
私はこの難局をなんとか乗り越えようとした。自分からは決して人の名前を呼ばず、相手に言わせるのだ。
あるとき、放課後所用があって部活を休んだ。その旨は、ちゃんとアライくんに伝えてあった。
ところがその夜、部員の一人から電話がかかってきた。
「おまえ、なんで勝手に部活休んでんだよと」と言う。
「<ボク>は、ちゃんとアライ<くん>に言った。」
その一言が言えない私は、「ちゃんと言ったよ」とだけ言った。
「誰だ?フジイか?」
「いや…」
「タカハシか?」
「違う」
「じゃあ、誰なんだよ。シライシか?カトウか?」
私はアライくんの名前が出てくるのを根気よく待った。
ところがいつまで経ってもアライくんの名前が出てこない。彼はアライくん以外の全員の一年生の名前を挙げたあげく激昂して言った。
「誰にも言ってねえじゃねえか!!口から出任せ言ってんじゃねえぞ!!」
ここまで追い込まれても私はアライくんを呼び捨てで呼ぶことが出来なかった。
たった一言「アライに言ったよ」と言えば済むことなのに…。
結局、誤解を解くことが出来ないまま、電話は切られた。
「アサーショントレーニング」につづく。