(承前)「社会に出る」
私の最初の就職先は四ヶ月で終わった。
その四か月のことは、あまりに悪夢過ぎて、ほとんど記憶の中から消失している。しかし、なぜだか一つだけよく覚えていることがある。
就職して一、二ヶ月目ぐらいのことだったろうか。
地域の支社いくつかが集まっての合宿みたいなのがあった。
夜の飲み会の席で新卒社員の自己紹介が始まった。
みんな一人ずつ前に出てきて、面白おかしく捨て身のギャグなどを披露して座を沸かせた。当時は今ほどコンプライアンスもうるさくなく、女子社員なども会場から卑猥なジョークを浴びせられ、ヘラヘラ笑って返したりしていた。
自分の番が回ってきた。
自分は何一つ面白いことを言うことができず「まだまだ未熟者ですが、先輩たちのご指導のもと、頑張りたいと思います」などと、面接試験のときのような、味気ない挨拶をして引っ込もうとした。
「おい、それで終わるつもりかよ」
誰かが野次を飛ばした。
「は…」
「なんか芸をしろよ」
いや、私はそういう芸とか、ないんで…と言うと
「じゃあ、パンツを脱げ」
「え……」
絶句して立ち往生していると
「早く脱げよ。全裸になって裸踊りをしろ。」
早く脱げー。脱げー。とみんなが囃し立て始めた。
いい加減、酔いも回っているのか、みんなゲラゲラ笑っている。
「裸踊りするまで絶対許さねえからな。早くやれよ」
私はいったいどうすればいいのかわからなかった。
どんなリアクションを取ることもできず、呆然としていつまでも突っ立っていた。
「もう、やめろよ!」
誰かが仲裁するように叫んだ。
「いや、やめねーぞー。絶対許さねーぞー」
「やめろっつたら、やめろっつってんだよっ!!!」
「うわっ、○○ちゃんがキレたぞ」
「怖えー」
「わかった、わかった、もうやめよう」
こうして私は、なんとか解放された。
「おい、キミ、ちょっとこっちに来い」
さっき仲裁してくれた人が、私に向かって手招きした。
「ちょっと話そうか」
二人で別室に移った。
「キミは、この会社に就職して、どういう気持ちで今までやってきた?」
相手が自分のために身を挺してかばってくれた人だということもあって、多少気を許す気持ちもあったのだろう。私はポツポツとしゃべり始めた。
できるだけネガティブで後ろ向きな言い方にならないように気をつけながらも、周囲と上手くいっていない現状などは素直に認め、まだまだ努力しなければならないと結んだ。
「お前、そんなことじゃ、この先やっていけんぞ!!」
突然その人が怒り始めた。私は不意を食らってギョッとした。
その人は、私のことをかばって仲裁してくれたのではなかった。あまりにも私の態度が不愉快過ぎて我慢できなかったのだ。
その後は、悪夢のような説教がえんえんと続いた。もう何時間もされたように記憶する。
宴会が終わって、みんなが部屋に戻って来てきてからも、それは続いた。
私はもう観念して、いい加減な生返事をするか、黙り込むしかなかった。
人が何を考えているのか、さっぱりわからない。
その時も、しみじみそう思った。
(最終章)「橋本治さんのこと」に続く。