マルコによる新明解独語辞典

WEB連載「マンガのスコア」とマンガ「ゴミクズマン」の作者のブログです。

北野武の新作を観に行った

北野武の新作「首」を、さっそく観に行った。

封切り初日の朝一番の回。客の入りは八割くらい。週明けの集計報道を見てみないとわからないが、大ヒットというほどでもないのか?

私自身どうかというと、いの一番に駆けつけるくらいだから、まあ楽しみにはしていた。

北野映画とはリアルタイムに伴走していて、三作目の「あの夏、いちばん静かな海」以外は、みんな封切時に観に行った(今思うと、あれも行っとけばよかった…)。

その間、北野監督は随分といろんな映画を撮っていて、中にはこれはちょっとというのもあったし、「Dolls」の時は、さすがに「終わったかも…」と思ったりもした。「ドンパチはもう撮らない」と宣言されたときはガッカリもしたが、それでも新作が公開されると、やはり観に行った。

アウトレイジ」で、ギンギンにアツいドンパチ映画で帰って来た時は、素直に嬉しかったが、海外では不評の声もあると聞いた。「あの「キクジロー」の監督が、こんな殺伐とした映画を撮るとは。」とか「『HANA-BI』には、暴力の中にも哀愁や人間への深い洞察があったが、この作品には何もない」などと言われ、「海外」とか「シネフィル」とかに案外弱い北野監督が、こういう心ない意見に耳を傾けなければいいが…と切に願ったものだ。

しかし、それは全くの杞憂で、北野監督は全く悪びれることもなく続編を二本作り、このシリーズは新たな北野ブランドの一つになった。

おそらく北野武は、もう何も気にしていない。

今後は好きな映画を、好きなように撮る、と腹に決めたのだろう。

こうした境地に至った理由はいくつか考えられるが、最も大きな理由は、すでに自らの地位が盤石となったという安心感だろう。今後どんな映画を撮ろうと――たとえ駄作を連発しようと――、「晩節を汚した」などと言われることはあっても、「世界のキタノ」という地位は、もはや崩れる心配はない。それはもう完全に確立されてしまったのだ。

世界の映画史に北野武の名は必ず明記される。消え去ることはあり得ない。

この側面は意外なほど大きいと言わざるを得ないだろう。

人は、自分が何者でもない時、過度に周りの声が気になったり、さして気にしなくてもいい要素に斟酌したり、よけいなことに囚われがちである。

「好きなように撮る」にはなんらかのポジションは大事だ。それがS級ランクの地位であっても、知る人ぞ知るマイナーなポジションであっても同じことだ。「この人あり」と、どこかの誰かに認知されていること、これはとても大事なことだ。

初期作「3-4X10月」では、一見すると訳の分からないフッテージが、ときどき出てきたりして、意味深な雰囲気を醸し出していた。

あるとき、北野監督は、何かのインタビューで「こういうカットとか入れたら映画評論家とかが、喜んで分析してくれたりするんだろ?」などとコメントしていた。半分はおふざけだが、半分ぐらいは本気だろう。北野監督は、意外と「評論家」を気にしているのだな、と思った。

しかし、今の北野武は、もはや、そんなことを気にすることもなくなっただろう。

 

さて、「新作を観に行った」というタイトルで書き始めたものの、本作と関係ない話を長々と書いてしまった。申し訳ないので一応感想めいたものを書いておくと、まあフツーだった。

観る前はアタリかハズレか、まるで見当がつかなかった。手堅い演出をするタイプの人ではないので、失敗した時のスベり方は尋常なレベルではない。今回はどうなんだろうと思っていた。いすれにせよ、たけし流の新解釈で、とんでもない戦国ものになるだろうなとは思っていたが、意外と普通にやっていたのである。

オリジナルのキャラやエピソードを加味して、それなりに趣向を凝らしているが、それぐらいなら普通の戦国ものでもやっている。「あれ?意外と今回はマトモだぞ」と思ったのである。エグエグしい演出に多少の新味はあるものの、まあタケシの映画だからなあ…。

こうなると、かえって大スベリしたヤツを観たかったな、と思い始めるのはワガママな客の性というものだろう。